箸
「食事、適当に頼みますね」
「うん、お願い」
相田はメニューの冊子のページを一通り素早く繰って、先頭のページを再び開いた。渡瀬は左手を右腕の陰に持っていって、左手の甲で右肘から二の腕にかけてをさすりながらビールを一口飲んだ。相田がページをめくった。相田のお通しはまだ残っていた。渡瀬は自分のお通しも残っていることを思い出した。相田がページをめくった。渡瀬は右手で箸を上から二本まとめてつかみ、箸の先で弧を描きながら人差し指と中指の間に二本を挟んで、親指の背も使って中指を抜きながら弧が円になるようにぐるっと回して親指と人差し指の間に二本を落ち着け、下になった方を薬指で支えながら、上になった方を親指を添えつつ中指と人差し指で持ち上げ、お通しを挟める位置まで動かしてから人差し指と中指を前後に動かしてお通しをつまみ、腕を内側にひねって口まで運んだ。
「主任って箸の持ち方、きれいですよね」
相田がメニューから顔を上げて言った。
「そう?」
私はうれしそうだったと思う。
「でも、相田君のペンの持ち方の方がきれいだよ」
「え……」
渡瀬は話を飛ばすのが早かったかと思って少し後悔した。
「……私は逆に、あんな持ち方でよく疲れないなと思いますね。というか、きれいとか良し悪しじゃなくて、剛か柔かというイメージです」
相田が顔を掻いた。
「でも、字がきれいな人ってみんな相田君みたいな持ち方だと思うけど」
「字はきれい汚いじゃなくて個性なので。最低限読み取れればいいんですよ」
読み取れない字を書く人なんてたくさんいるが、この子が言いたいのはそういうことではないと思った。
「私、渡の又のはらいが自分らしく書ける大人になりたいんだけど、十回中六回は失敗するんだよね」
「わかります。私も学生時代は田をどれだけ窓のように書けるか、田のつく友人と競っていました」
「わかってない気がする……」
「わかってますよ」
渡瀬の頭の中には学生の相田が浮かんでいて、相田の頭の中にも学生の渡瀬が浮かんでいた。
窓のない個室の中にいる二人は、外の天候、気温だったり風向きだったり降雨だったりをまるで意識していなかった。それらが少し変わったところで二人にはそれがわからなかったし、わからなくても問題はなかった。個室から見た外は店のフロアだった。外からは人がざわめく音が聞こえてきていた。何人もの声が混じり合って、誰かの声ではなく人の声になっていた。耳を澄ませば聞き分けられたかもしれないが、二人はそれをしていなかった。ただ相手のことや自分のことを考えていた。個室の中には、相手と自分のこれまでとこれからがふわふわと頼りなく漂っていた。それはビールの泡のように、目にとまることなく消えたり、また注がれたりしていた。




