訓練場③
それは突然、訓練場全体に響き渡った。
チリンと鈴の音がしたと思ったら、馬鹿デカい声がエリスの名前を呼んだのだ。
「エリスー!おい、さっきから何度も呼んでるだろうが、気付けこの鈍感女!」
とんでもない悪態が空から降ってきた。
団体模擬戦を始めようと準備していたニコラスの班員も、突然のことに度肝をぬかれたらしい。皆、手が止まってしまった。
訓練場にいる全員が、空を見上げているという異常事態だ。
「あー、聞いてんのか?返事しろよ!」
相手は苛立った声だ。
「聞いている!お前は誰だ?」
意を決して、エリスも空に向かって大声をあげた。
「あぁ?この大きさじゃ分からねえか。俺だ俺、ルーだよ」
「ルー?」
「そうそう。俺、今新婚だから休暇中なんだけど、お前が困ってるだろうと思ってそっちにガブリエラの手鏡送っとくから」
いつ届くのだ?というか誰が届けてくれるのだ?という疑問は無視された。
じゃあなー、という言葉を最後にまたチリンと鈴が鳴って声は途切れた。
「あいつもいい加減なやつだな。もっと詳しく言えばいいのに」
アインが呆れていた。
「いやぁ、誰が聞いてるか分からないし、あえて情報を制限したんじゃないかなぁ」
ニコラスが髪をふわふわさせながら言った。そして、ほら、と東の空を指した。
「なんか来る」
まだ遠いが、確かに黒い物がこちらめがけて飛んできてるようだ。
閣下も天幕から出て、周りに指示を出し始めたようだった。天幕の周辺に近い騎士から弓を手に身構えているようだ。それとは別に、50人ほどがこちらに向かって駆けてくる。もちろん剣を手に。
エリスはちょっと逃げたくなった。
ごつい男たちが一斉に向かってくる様はか弱い女性なら怯えてしまうだろう。しかし、エリスの感想はこうだった。
──────訓練で汗まみれの奴らに囲まれるのは嫌だな。
「で、アンタも命令だせよ」
アインがニコラスにそっけなく言った。
「あ~、とりあえず剣持って構え。お嬢さんの周り固めとけ」
あれ、こっち狙いだよねぇとのんびりした口調でニコラスは空を見上げた。
訓練場自体が戦闘態勢に入っていた。半数が弓を持ち、斉射の合図を待っている。
エリスの周りにも盾と剣を持った騎士があふれた。
黒い物は時折キラキラと光り、どんどん近づきそれが手鏡だと分かった時エリスは駆けだした。
腕のスーを傍にいたアインに無言で渡し、一目散に落下地点へと。
周りにいた騎士たちもそれを見て一緒に駆けだしたが、盾や剣といった武具の重みでフルスピードはでない。武器を持たない身軽なエリスが、道をあけてくれた騎士たちの間を縫って全力で走っていく。
開けていく視界の先に雑草の生えた地面が見えた。
「あいつ、どこ狙って送ったんだ下手くそめ」
エリスの悪態は誰にも届かなかった。
手鏡は勢いを殺さず落ちてくる。
受け止めきれなければ割れるだろう。そうなればスーはずっとあのままだ。
きらきらと感情に合わせて輝く鱗と愛らしい表情。
スーが人形のように喋らず、動かず過ごしたこの数日は寂しかったのだ。
エリスは自分が思っていた以上に、スーが好きなことに気付いた。
─────頼む!届け!
力強く蹴った地面と精一杯伸ばした腕の先に、手鏡が触れた。
そして目の前には池。
一瞬の逡巡の後、エリスは咄嗟に手鏡を抱き込んだ。
どぼん!
と池に落ちたエリスには分からなかったが、手鏡を受け止めたのを見た騎士たちから歓声が上がっていた。池に落ちたエリスを救助しようと、池の周りには騎士たちが殺到し鎧と服を脱ぎ始めている。
その中をアインがスーを片手に、タオル持ってこいと隊の若者に指示を出しニコラスのマントを引ったくり池へと急いでいた。
飛び込んだ池の中はうす暗くひんやりとしていて、エリスはそのまま浮き上がるのを待った。
手には受け取った鏡がある。
これでスーが戻ってくる。そう思うと嬉しくて、何気なく鏡を見ると鏡の中に何かが見えた。
沈むのが止まり、ゆっくりと浮上していく最中にそれを覗き込むとエリスの意識は鏡の中に吸い込まれてしまった。
※ ※ ※
「エリス。起きろ。おいエリス」
揺さぶられ、目を覚ますとそこは乳白色がどこまでも広がる空間だった。
ぼんやりと視線を巡らせると頬に手が当てられ、耳をくすぐられる。
それを払い、起き上がる。何だか意識がはっきりしない。
目の前の男に誰だ?と声をかけたつもりだったが、声は出ていなかった。
喉を押さえ、もう一度声を出そうとしたところで男にその手を制された。
「ここでは思うだけで私に伝わる。声は出さなくていい」
いぶかしく思い、男を見る。
煌めくオーロラ色の双眸に白銀の短髪。肌も滑らかな白さでうん、こんな美貌を持つ知り合いはいない。
─────だれだ?ここは?
エリスが問いかけると、男はどこか嬉しそうに答えた。
「私が分からないか?人の姿をエリスの前でとったことはないから仕方ないが少し薄情ではないか?」
男はエリスを責める言葉を発しているのに、どこか嬉しそうな響きがあった。
─────あなたのような知り合いはいない。
はっきりとエリスが言うと、男は満面の笑みで名乗った。
「私の名はスーフェニアル。やっと名乗れた。私のつがい」
愛おしげにエリスの髪をすき距離をつめてくる男に、エリスの頭の中は疑問しか生まれなかった。
オーロラ色の双眸に記憶が刺激される。
これと同じ色をどこかで見た覚えが・・・
─────・・・スー?
その時の男の表情は歓喜していた。
ぎゅうっと抱きしめられ、なぜかほっとする自分に疑問を抱きながらエリスはまた聞いた。
─────スーなの?ここはどこ?
「ここは鏡の中の私の自我だよ。迎えにきてくれたのだろう?」
実に嬉しそうな顔で、エリスの顎を持ち上げ唇を寄せてくる男(中身がスーだと分かれば遠慮はしない)の顔を手のひらで押しやり、エリスは辺りを見回した。
─────ここからどうやって戻るの?
「なに、簡単なことだ」
スーが宙に指で長方形を書くと、それが扉になった。
「ここを開ければ戻れる」
─────じゃあスーも一緒に戻ろう。
「・・・それはできぬ」
─────どうして?
「エリスが私のつがいになると約するまではここから出ない」
ただのわがままかっ!
─────・・・スーがいないと寂しかった。戻ってきて。
「私に会いたくなれば鏡を覗くといい。いつでも会える」
今度会うときは私の名を呼んでくれ。
そう言ってスーは扉の向こうへエリスを押し出した。
※ ※ ※
ざぶ、と水しぶきをあげてエリスが池に顔を出した。
またしても上がる歓声。
それにぎょっとし、エリスは池の縁を埋め尽くすかのような騎士たちに驚いた。
しかし素直に騎士たちに引っ張り上げられ、ぼたぼたと水をまき散らしながら荒い呼吸を整えていた。
「半裸の男どもはさっさと服着てねぇ。お嬢さんなかなかやるね!うちの隊に来ない?」
ニコラスがアインと共にやってきて、お尻を蹴られ半裸の男たちの間に突っ込んだ。
「それよりタオルが先だろうが!」
アインの怒声とともに、エリスの頭にタオルが降ってきた。
「お前もさっさと拭いてこれ着とけ。野郎どもの前だからとっとと隠せ。殿下にばれたら半死もんだ俺が」
ばさっと分厚いマントがエリスにかけられた。
乾かしようがないので、気持ち悪いが仕方ない。
「スーフェニアル・・・」
え?とアインに聞き返されたが、何でもないと答え立ち上がった。
スーの白い美貌がエリスの脳裏で寂しげに笑っていた。




