ある旅人の追想
『きっと、ずっと一緒さ』
***
目を覚まして最初に見えたのは、木の天井。
そこから釣り下がった電灯が、わずかにゆらゆらと揺れる。
起き上がって、視界を巡らせる。
簡素な部屋、ベッド脇のテーブルに鞄が一つ。
ああ、そう言えば、昨日から船に乗っていたんだったか。
大きく伸びをして、そのついでに欠伸を一つ。
目元に滲んだ涙を親指で拭ってから、ベッドを下りた。
「おう、旅の人! よく眠れたかい?」
船乗りの言葉に、笑顔と頷きを返す。
すると、船乗りは嬉しそうに笑い、満足そうに頷いて見せた。
「しかし、あんたも物好きだね。このご時世、あんな島に行きたいなんて」
首を傾げれば、船乗りも同じように首を傾げる。
しばらく腕を組んで考えてから、船乗りはもう一度口を開いた。
「何か、大切な用事でもあんのかい?」
その言葉に、今度はこちらが腕を組む。
こちらの様子を窺っていた船乗りが、やがて小さくため息を吐いた。
「ま、深入りはしねえでおこう。とりあえず飯にしようや」
にっと笑って見せる船乗りに、顔が緩むのが分かった。
そんなこちらの様子を見て、船乗りは呆れたように笑った。
***
朝食の後で、宛がわれた部屋へ戻る。
ベッドに腰を下ろして、テーブルに置いた鞄を取り上げる。
中をあさると、古いノートが顔を出した。
ページを繰ってみれば、汚い字と丁寧な字が交互に現れる。
時折、少々乱雑なタッチで描かれた絵も見えた。
一度閉じて、もう一度最初のページをめくる。
“今日から、僕らは友達だ”
“君に、いろんな楽しい話をしたいと思う”
汚い字で書かれた言葉に、思わず噴き出した。
ページをめくれば、今度は丁寧で読みやすい字が現れる。
“よろしく頼む、我が友よ”
“君が語る話なら、きっととても楽しいんだろうな”
“これから毎日、それを楽しみに生きていくことにする”
大人びた文字と文体に、今度は顔がわずかに緩む。
次のページは、また汚い字。
“知っているかい?”
“この村には、ずいぶん昔に盗賊が隠した宝物が眠っているんだって”
“今日はそれを探しに行ってきたよ”
“見つかったのは、古びた宝箱だけだったけれどね”
その文章と一緒に、乱雑なタッチで描かれた宝箱の絵。
古びていることを表すためか、絆創膏のようなものも一緒に描かれている。
ページをめくると、次はまた丁寧な字が現れた。
“それは残念だったね”
“しかし宝箱があったのなら、話は本当かもしれないな”
“とても浪漫のある話じゃないか”
その先のページも、他愛のない話が続く。
犬に噛まれたという話や、八百屋に野菜を買いに行った話。
初めて船に乗った話。
“君と、一緒に遊びたいものだな”
不意に、そんな言葉が目に入った。
丁寧な字で書かれたその文章は、他と比べて筆圧が強い。
次のページに視線を移すと、他より大きな字で、けれど相変らず汚い字で、こう書かれていた。
“君が元気になったら、一緒に旅に出よう”
“僕が君の手を引くから、何も怖くなんてないさ”
“ずっと一緒にいよう”
そして、最後のページ。
ノートの真ん中に、いつも通りの丁寧な字で、一言。
“ありがとう。きっと、ずっと一緒さ”
ノートを閉じて、深く息を吐く。
ふと、小さく船窓を叩くような音が聞こえた。
立ち上がって外を覗き見ると、強い雨が甲板を叩いている。
いつから降っていたのか、すでに甲板は水浸しだ。
船窓から視線を外し、手元のノートに移す。
薄汚れたノートを表紙に返して、鞄の上に置いた。
『酷い雨だね』
不意に聞こえた声に、思わず周囲を見回す。
けれど他に誰かがいるわけでもなく、空耳か何かだと判断する。
もう一度ベッドに腰を下ろして、そのまま仰向けに寝転んだ。
天井の木目が一部分、人の顔のように見えた。
***
『酷い雨だね』
耳に届いた懐かしい声に、目を開ける。
不明瞭な視界、意に反して動く自分の視点。
そこに映った人物に、自分は夢を見ているのだと納得した。
『雨は嫌いかい?』
その問いかけに肩をすくめてみせると、その人はくすくすと笑う。
楽しそうなその笑顔に、こちらの顔まで緩むのが分かった。
『そうだね。私も、嫌いじゃないな』
そう言って、その人……いや、彼女は、窓から外を眺める。
まるでバケツをひっくり返したような土砂降り。
地面を叩く雨の音がうるさい。
小さく手を叩くと、丸い目がこちらを向く。
『どうかしたのかい?』
スケッチブックとペンを持って、その場で文字を綴る。
この手から生み出される汚い字は、先ほど古びたノートに書かれていた汚い字と同じ。
『虹のふもとには宝物が眠っている? へえ……初めて聞いたよ。それは浪漫じゃないか』
楽しそうに目を輝かせ、彼女はこちらを見た。
頷いて見せてから、もう一度ペンを走らせる。
すると彼女は、少しだけ寂しそうに目を伏せて、それから困ったように笑った。
『……それは、嬉しいな』
寂しそうに笑った彼女が、再び窓の外へと視線を移す。
その視線を追って、窓から外を見た。
変わらず降り続ける雨は、しばらくやみそうになかった。
『きっと、連れて行っておくれよ』
***
目を開けると、また木の天井が目に入った。
眠っている間に雨はやんだらしく、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「おーい、旅の人! じきに到着すんぞ!」
船乗りが騒ぐ声が聞こえる。
ゆるゆると起き上がり、古いノートを鞄にしまう。
鞄を持ち上げて船室を出れば、船乗りがこちらを見て笑みを浮かべた。
「見ろよ、旅の人! 縁起のいいこった」
楽しそうな笑顔で、船乗りが島を指差す。
そちらへ視線を動かして、飛び込んできた光景に息をのんだ。
「まるで、あの島に宝でも眠ってるみたいだ」
島から空へ、大きな虹が伸びている。
けれど、それじゃない。
それより手前、船首の近く。
そこに見えた幻影に、顔が緩んだ。
『これはすごいな! 浪漫じゃないか! なあ、友よ!』
島を指差す幻影が、こちらを振り返る。
屈託のない笑顔を浮かべて、嬉しそうに、楽しそうに、僕を見る。
一歩、近付いた途端に、その幻影は光に溶けていく。
まるで何もなかったように、何も残さずに、消えていく。
「ああ、消え始めちまった」
船乗りの声に顔を上げると、虹が島から離れていくのが見えた。
心が詰まる。
視線を足元に落として、目を閉じた。
ああ、分かってはいたよ。
けれど、改めて思ったんだ。
僕にとっての宝物は、君だ。
目を開けて、空に溶けていく虹を視界に映した。
緩んだ顔のまま、大きく息を吸う。
もしかすると彼女は、これまでもああして、僕のそばにいたんだろうか。
長く旅をしてきたけれど、その間ずっと、彼女は僕と共にいてくれたんだろうか。
『当たり前だろう? 君が、“一緒に行こう”と言ってくれたんじゃないか』
心の声に対する返事が聞こえた気がして、また顔が緩む。
伸ばした手は空をつかんだけれど、彼女がそこにいる気がした。
それが、気のせいでなければいいのに。
『きっと、ずっと一緒さ』
ああ、きっと。
……僕が覚えている限り、君はそこにいるんだろうな。