#08
長い黒髪に、白く美しい顔。そして、額から伸びた二本の白磁の角。それを認識した瞬間、千滝宗の尼僧であり、強力な結界を結ぶことの出来る能力の持ち主は、己らとそれを分ける結界を結んだ。正確には結ぼうとした。一歩遅く、女鬼の近くにいた今回の救出計画を共に遂行する仲間の一人が、血と内臓を撒き散らして倒れた。その光景、肉を裂く音、鼻につく匂い、全てに耐えきれず、集中を欠いた尼僧は、結局結界を結ぶことがかなわなかった。もの言わぬ有機物の残骸と成り果てた仲間の姿に、叫び出したくなるような悲しみを感じる一方、己らを雇った雇い主への恨みがふつふつと滾った。尼僧は、令嬢を攫った鬼が複数だとは聞いていたが、女鬼が混じっているなどとは聞いていなかった。
尼僧の…というのはつまり、この『除霊ビジネス』業界でのという意味だが…定義では、『鬼』とは元は人間、何らかの理由により強大な力、長い寿命を得、ひとに仇をなす『ひとならぬもの』である。ひとであった頃の願望が反映されるのか、男は強靭な肉体、女は美貌を有していることが多く、そして厄介なことに『女鬼』と俗に称される、女の鬼は『魅了』、人間の男を惑わせ、意のままに操る術を会得していることが多かった。そのため、女鬼を討つ場合にはそれなりの対処を施していないと、同士討ちに導かれ、全滅という末路が待っている。このときもそうで、もはや尼僧は目を血走らせ、文字通り何かに取り憑かれた様子の、元味方たちからの凶刃を躱すことが全てになっていた。
「逃げろ!」
尼僧が、倒れた何者かの体に蹴躓いて、転倒した際、その声は聞こえた。同時に突き出された大槍の穂先が、地面に座り込んでいた男に向かって振り下ろされた刀を弾いた。刀の持ち主は次の瞬間、槍の柄を腹に受けて崩れ落ちた。尼僧が礼を言うより早く、大槍を軽々と引いた大男は踵を返すと、他の魅了に堕ちた同業者たちに向かい、なぎ倒していった。大男は、巌礎宗の翠康だった。普段交流が無く、逸話が一人歩きしているというのが、少し前までの尼僧の認識だった。今は、少なくとも誇大気味に描かれるに足る人物だと合点がいっていた。ただ残念ながら尼僧はその感想を、誰かに伝えることは叶わなかった。立ち上がろうとしたとき、背後から忍び寄った鬼がその体を引き裂いたのだった。
千滝宗総本山の敷地の一角、朝の勤行の時間以外は誰も訪れることの無い、古びた墓地があった。古びてはいるが掃除は行き届き、苔むした数々の墓石は、昼間、日の光の元であれば、なかなか風情と年月を感じることも出来る。だが今は日も落ちてから大分時間も経ち、明かり一つない上に、月明かりも届きにくいこの地は、正しく薄気味悪い外観で、今は更にがりがりという何か硬いものを砕く音が時折空気に混じって響き、気の弱い者であればそれだけで気を失いそうな雰囲気だった。墓石を一つ、本来の位置からずらし、ぽっかり空いた黒い穴から腕を突っ込み、漆嘉遍が骨壺を取り出したのは少し前である。今その骨壺は蓋が開かれ、底にわずかに灰を残して、漆嘉遍の眼前に転がっている。漆嘉遍が口を動かすと、まだ口腔内に残っていた、骨の一部が噛み砕かれ、また音を立てた。
昨日の朝方に出掛け、今日の昼になってやっと、千滝宗のまとめ役、倉瀬英慎の息子二人が尊雀寺から、帰って来た。帰ってくるなり運良く体の空いていた英慎とともに奥に籠って話し込んでしまい、夜になって出てきたときにはどういう訳か、上の息子が実家を出るという話しになっていた。それを聞きつけた英慎の下の弟は、目障りな甥の一人がいなくなるらしいという知らせに、小躍りして喜んでいた。
「彼の甥御は、貴殿の兄上の子供たちの中では一番力が弱かったのではありませんか」
たかが甥一人、実家から離れるだけだというのに随分とはしゃいでいる男を前に、漆嘉遍が口を挟んだ。漆嘉遍が知っている限り英慎の五人の子で、一番優れているのが末弟、続いて共に一番上の年齢になる双子の姉妹だった。
「水を差すな」
漆嘉遍の言葉に、男…英慎の二番目の弟で、英凌たちきょうだいの叔父に当たる…寧礼は嫌な顔をした。きょうだいの中で一番脆弱、という意味で、寧礼と英凌は似ているのだが、寧礼と異なり、実家で何をするでも無く、何を疑問に思っている様子でもなく、日々をのんべんだらりと過ごしているように見える英凌は、それはそれで寧礼の神経を逆撫でする存在だった。
「翠康については何か知れたのですか?」
翠康について調べよという己の助言から英凌を尊雀寺に向かわせた筈だったのに、その目的が忘れ去られている様感じ、漆嘉遍は確認した。半ば上の空で、寧礼は英凌から聞き出した、翠康の隠居の理由、その後に完全に世捨て人として生きたことなどを、語った。
「昂美童子については?」
「籠蔦事件のときには既にいなかったそうだ」
実際に英凌が使ったのとは違う言葉だったのだが、寧礼は細かいことを考えられるほど、気が落ち着いていなかった。籠蔦事件という言葉に、漆嘉遍は口を閉ざした。知らない単語だったのだ。寧礼に尋ねると、短いながら答えはしてくれたものの、完全に他人事で、面倒臭げである。寧礼が新しい酒瓶を開け始めたのを見、この状態では詳しいことは得られそうも無いと判断した漆嘉遍は別の方法をとった。実際にその場に居合わせたものの記憶を辿ることにし、その方法として、籠蔦事件で命を落とした尼僧の墓をあばき、遺骨を食らっていたのだった。
…おかしい。
漆嘉遍はそう感じた。尼僧の記憶では、翠康は女鬼の魅了に掛かっていない。女鬼の持つ魅了は夢魔など生来のものと違い、後天的に身につけるもののため、術者としての能力差に大きく左右され、個体別に術の強弱の差が大きい。単純にこの女鬼の術が弱かったというだけということも考えられるが、話しを聞く限り翠康はいわゆる破戒僧で、この類いの術への耐性を高めるような修行をしているとは思えなかった。それよりは翠康が他の女怪、籠蔦事件の女鬼より高位の女怪の影響下にあった場合の方がまだ考えられた。その場合、影響を与えている一番高い可能性は、籠蔦事件直前までは存在が確認されている昂美童子になる。
…やはり消滅などしていない。どこかにいる。
漆嘉遍はそう結論付けると、恐らく酒を搔っ食らっている最中であろう寧礼を思い浮かべた。
…まだ使わざるを得ないか。