#07
昼間、山一杯に鳴き響いていた蝉の声が今は静まり、遠くの自動車の駆ける音が時折聞こえてくるだけになった。日が落ちてかなり経つというのに、風もほとんどなく、日中に溜め込んだ熱を含んだ空気が、まだ暑苦しさを感じさせている。昨夜は花火で盛り上がっていた時間帯だが、倉瀬も含んだ五人の高校生は、今日は真面目に課題をこなしていた。勉強用具は一切持参していなかった倉瀬だが、問題集を借り、ルーズリーフに解答を書き連ねている。英凌は、もともとほとんど動くことなの無い生活をしているために、参道の上り下りだけでかなり疲れたらしく、風呂に入る前は座布団を枕にして、今は暫定的に敷いた布団の上で、ぐったりと横たわっている。
一通りの区切りを付けた美月は、日記代わりのルーズリーフに今日一日であったことを箇条書きで記していった。後で坊坂の行動記録として送るためのものだが、内容自体は美月が今日経験したあれこれを書いているだけなので、同じ部屋に坊坂がいようと気にはならなかった。ただ、巌礎宗のお偉いさんが、倉瀬の実家を訪問していた云々の下りは、例え個人的な日記であっても文字にしておいて良いものか悩みどころだった。一応極秘事項らしいので、下手に記載していて誰かに見られ、八重樫に迷惑を掛けるのではないかと思うと記憶の内にのみ留めておいた方が良いと思うのだが、報告として送るのであれば、書き留めておかないと忘れないとも限らない。筆が止まった美月を、既に今日の分の課題を完了させてスマートフォンを弄っていた坊坂が見とめて、声を掛けた。
「日記?」
「うん」
「すげえよな、毎日書いている」
美月と寮で同室の藤沢が会話に加わって来た。一応ノートはまだ開いているものの、そろそろ集中力が切れて来たようだ。
「母に近況を知らせないといけないしね」
「母、ね」
坊坂が少し含みのある言い方をした。ふと美月は気付き、八重樫が席を外していて、倉瀬は入浴中、藤沢は部屋に居るものの、下を向いて課題に取り組んでいるのを確認して、さっと新しいルーズリーフに走り書いた。
…例の手紙は?宛名は、きょうこ、だった?
坊坂は眉を上げた。美月を見る。美月は何食わぬ顔で、その問いが書かれた下の空白に落書きをしている。少しのためらいの後、坊坂は書き加えた。
…Kyoko
美月はその文字を確認し、坊坂を見た。坊坂は何とも言えない顔で軽く首を振った。恐らく坊坂も自分と一緒で、結局手紙が匡子宛だったのか、別のKyoko宛だったのか判断出来ないでいるのだろう、と美月は結論付けた。
人が増えたので、八重樫はもともと使用している庫裡の横の部屋で休むことになった。英凌が早々に寝息を立て始めたこともあり、昨夜と同じ時刻には就寝した友人たちの部屋から離れ、八重樫は庫裡に入った。庫裡に置いてあるテーブルはそれ自体は四人掛けだが、上に野菜の入った籠や何やらが置かれているため、実際には二人分ほどの空きしかない。そこで匡子が明日の買い物メモを綴っていた。
「ちょっと、いい?」
八重樫が声を掛けて向かいに腰掛けると、匡子は顔を上げた。上げた顔の顔色が、蛍光灯の光の加減のせいで、余り良くないように見える。
「なに?」
「今日、英凌さんが言ったことなんだけどね」
匡子は苦笑した。
「あれね。何と言うか、面白い子もいるのねえ」
「うん。面白い。で、プロポーズ受けるの?」
「はい?」匡子は目を瞬かせ、すぐにまた苦笑に戻った。「何を言ってるの。そんなわけないでしょう」
「俺としては、受けてくれた方が安心なんだけどね」
「あのねえ…」
「それなら、尊雀寺を離れても、問題ないでしょ」
匡子は最初は当惑、それから徐々に暗い顔付きになっていった。声を低くして、問う。
「副住職に言われたの?出て行けって」
八重樫は首を振った。
「まさか、あの方が言う訳無いでしょ。例え内心邪魔だと思っていても、いや、実際思っているんだろうけど、決定権は義継様にあるんだし」
義継は入院中のこの寺の住職である。翠康と同い年の生まれだが、出家したのが遅かったため、弟弟子ということになる。翠康が宗派内でもっとも信用していた人物で、自分が他界した後に八重樫親子の身柄を頼んだ相手である。
「でも、義継様が亡くなられたらどうなるの」
「郁美!」
辺りを憚って、声は小さいがきつい口調で匡子は息子を咎めた。縁起でもない、と、その表情が語っていた。八重樫は眉一つ動かさずに続けた。
「ひとは脆いものだよ。義継様はもうお年だし、例え退院されたとしても、寺を仕切るだけの体力はない。後継に譲って、隠居ということになる」
「…」
「そのとき出て行くか、今出て行くか、それだけの違いだよ」
八重樫は溜め息を吐いた。そのまま下を向き、テーブルの何も無い面を見ながらつぶやいた。
「もう少し、先になると思っていたけどね。俺が高校卒業したら、一緒に出て行けばいいと思っていたから」
匡子は無言のまま、八重樫の頭に片手で触れた。荒れた手指に、癖毛が巻き付いた。
「予想より早く、お手伝いの方々が辞めてしまったしね」
続けられたつぶやきに、匡子がうなずいて同意した。
「お手伝いの方には本当に申し訳なかった。嫌な思いをさせてしまって」
少し静寂があった。八重樫は子供の頃によくやられたように、己の頭を撫でている匡子の手を取ると、テーブルの上に置いた。
「それと、大僧正様が倉瀬のところ…千滝宗に接近していることもある。今のところ、権大僧正様たちに知られてはいないみたいだけど、千滝宗側からそのうち漏れると思う。そうなったら絶対一波乱あるし、巻き込まれるというかとばっちりが確実に来る」八重樫は再び真っ直ぐに眼前の相手を見据えた。「その前に、さっさと離れた方がいい」
見据えられた匡子は、虚空に視線を漂わせていた。顔から表情の一切が落ちて、能面のようになる。そのまま微動だにせず、しばしの時が流れた。
「分かりました。明日にでも副住職に伝えます。今すぐにはとても無理だから、早くてもお盆が終わってからになるけど、寺を、出ると」
はっきり下された判断に、八重樫は微笑んだ。
「でも、許可して下さるかしら。代わりの働き手がすぐに見つかるとは思えないんだけど」
「ああそれは大丈夫。副住職には、今すぐにでも家に引き入れたいかわいい女の子がいるみたいだから」
「あら、でもその女の子、別に彼氏さんがいるのでしょう?」
当然と言えば当然だが、匡子もコンビニの店員からしっかり情報を得ていた。