#05
「あんまり話せることも無いと思うけど」
八重樫親子の間でどのような会話があったか不明だが、匡子を伴って部屋に戻って来ると、八重樫は卓袱台越しに倉瀬と向かい合って腰を下ろした。その隣に匡子が座り、倉瀬に呼ばれた英凌が、それまで何も見ていないようだった目を一転、爛々と輝かせて倉瀬の隣に着座すると、開口一番、言った。
「籠蔦事件のお話を」
匡子は当惑した表情で、息子を見やった。八重樫は嘆息した。
「母さんがじいちゃん…翠康と合流したのは俺が生まれたあとだから。四十年だがそこら昔の籠蔦事件のことは、翠康が話してくれた限りのことしか知らない。だから多分、あんたがたの方が詳しいよ」
籠蔦事件については、後で八重樫が教えてくれたことによると、どこぞの成金のお嬢様が鬼に攫われ、その父親が金にあかせて各派の霊能力者に収集を掛け、救出作戦を決行した一件のことだった。翠康の他に、倉瀬や坊坂の宗派からも、鬼と対決出来る能力を持つ者たちが作戦に加わっていたとのことだった。様々な要因が絡み、作戦に携わった半数が死ぬという結果に終わったらしい。
「では、昂美童子のこともご存じない?籠蔦事件のとき、昂美童子は既に翠康様のもとにいなかったと聞いていますが、本当ですか?」
「本当だよ。籠蔦事件の前に袂を分かったって」
身を乗り出すかのような英凌に、八重樫がごく軽く答えた。熱心に尋ねる英凌の様子を、少し驚いた表情で倉瀬が見ている。
「袂を分かった?」
「じいちゃんは、そういう言葉を使った」
不思議そうに繰り返した英凌に、八重樫は答えた。英凌は少しの間視線を下に向け、考えをまとめる様子を見せてから、次の質問に移った。
「追放以来、ずっと山に蟄居されていたのですか」
「そうですね、わたしが知る限りでは、山を下りられたことは無いです」
匡子が記憶をたぐるような表情を浮かべた後、答えた。
「山奥で生活されている間、何か、なかったのですか?」
「何か…?」
「超常現象的な事件に関わるとか、助言を求められるとかは?」
「鬼が襲って来て返り討ちにしたとか、弟子にしてくれって押し掛けた奴がいたとか、そういうエピソードがないかって、訊かれてるんだよ」
曖昧な英凌の言葉を、八重樫が捕捉した。匡子は目を見張り、くすくすと笑い始めた。
「鬼、ですか。それは、ないです」
英凌は残念そうに黙り込んだ。その落ち込みように、匡子はおろおろと息子を見、また英凌を見た。落ちた沈黙を厭うように、坊坂が替わって八重樫に尋ねた。
「八重樫は、翠康殿が本気で戦ったところを見たことは無いのか?」
「ない。俺に槍を教えてくれたけど、それだけ。でも子供心にも、その手加減有りの状態ですら、到達不可能な域だと思い知らされたな」
「ええ、そう、お強かったです」匡子が言いつつ頬を朱に染めた。「本当に、強かった」
「…こう言ってはなんだけど、籠蔦事件に関係しなければ、巌礎宗の槍術の師範としてそれなりの立場で一生を終えていたわけか」
半ば独り言めいた、坊坂のつぶやきだったが、八重樫は首を傾げつつ律儀に答えた。
「どうだろう。聖人君子とは程遠いひとだったし。…広まっている数々の逸話は知っているよな?性格破綻者というか破天荒というか、社会に適応出来ているひとじゃなかったから、どのみち宗派からは離れていたような気もする。追放後に山籠もりしたのだって、別に人里に居場所がなかったわけでもなく、単なる好みというか、それまでの人間関係を清算しようという選択の結果だし」
「清算って、籠蔦事件のせいか?人間不信に陥った?」
坊坂は不安そうな様子で尋ねた。倉瀬も表情は崩さなかったが心無しか居心地が悪そうな様子だった。八重樫は、あっさりと首を振った。匡子が引き継いだ。
「同じ『ひと』であっても好きな連中と嫌いな連中がいる。なので己を嫌うひとびとと共に生活などしたくなかった。それだけです。逆に、ひとならぬものの中にも、気が合う輩もいれば相容れない輩がいる、と、そういう考えで生きて来られたひとでしたから」
「だいたい、人間不信なら俺の面倒見てないっしょ」
八重樫が、軽い調子で言うと、匡子が深くうなずいた。
「翠康様がおられなかったら、わたし一人では到底郁美を育てられませんでしたしねえ。そういう意味では、むしろ、お人善しと言うのでしょう」
言うと微笑を浮かべた。
「…その…立ち入ったお話ですが、どういう経緯で翠康様と出会われたんですか?」
それまでしばらく沈黙していた英凌が、匡子に尋ねた。匡子は微笑を苦笑に変えた。
「赤子の郁美を抱いて山の中を彷徨っていたら、翠康様の庵があったのです」
「…なるほど」
どうして赤ん坊を抱いて山の中にいたのか、は訊いてはいけないのだと、部屋にいる全員が察した。
「本当に、稀な方です。亡くなられた後も一筆残して、ここに住めるように取り計らって下さって、それで今までなんとかやって来れたのですから」
いつの間にか、匡子の視線はどこかあさっての方に向かっていた。そこで言葉を止めたが、仮にそれ以上、続けるようなら八重樫が割って入ったと思われる雰囲気だった。
「翠康殿の亡くなられた原因を伺っても?」
わざとらしく咳払いをして、坊坂が問うと、匡子は視線を戻した。
「老衰、ということになるんでしょうね。それほどのお歳ではなかったのですが、若い頃の色々な無茶が、後になって影響してきたらしくて。あっという間でした。風邪を召されて、床に付かれたと思ったら、あの大きなお体が、削がれて行くように、小さくなってしまって」
ひとつ頭を振ると、目を伏せた。
「もう少し、居て欲しかった」
沈黙が落ちた。しばらく、匡子の様子を眺めていた英凌は、やおら卓袱台の横に出、匡子の隣に正座をすると、頭を下げた。
「僕をあなたの息子にして下さい!」
「…は?」
「おいまててめえこらあ!」
倉瀬の動きは迅速だった。しかし八重樫のこのときの動きはまさに神速というべき域に達しており、比べ物にならかった。倉瀬が止めるより速く、八重樫の足裏は英凌の頬を直撃し、英凌は畳の上に転がった。
「母さんの息子は!俺!だけ!なの!」
高らかに宣言した。一撃入れるのは見過ごしてしまったが、そこで倉瀬、坊坂、藤沢が八重樫を押さえ込んだ。
「じゃ、じゃあ!」手加減はされていたのだろうが、しっかりと一撃受けている筈なのに、案外に丈夫に出来ているところを見せて、英凌は起き上がるとがばっと音を立てそうな勢いで畳に手を突き、土下座をした。「夫で!結婚して下さい!」
「何馬鹿なこと言い出して…」
「それならよし!」
『いいのかよっ!』
英凌の言葉に、倉瀬と八重樫がほぼ同時に反応し、その八重樫の言葉に美月たち、残りの三者は間髪入れずに突っ込んでしまった。
「というかさあ、普通そっちだろ。なんで息子にしてくれなんて言うんだよ」
「え、だって、息子なら泣き落としで何とかなるんじゃないかなって。でも同情で、旦那ってのは、ほら、難しいかなって思って」
「…倉瀬の兄貴なんだな、やっぱり…」
何も考えていないようで、きちんと考えて物を言っていたらしい。美月は小声でだが、思わず内心を吐露してしまった。聞き留めた倉瀬が何か言いたそうな表情を美月に向けたが、何も言わなかった。
「俺が許す。頑張って口説け」
「はいっ」
何故か八重樫が、英凌に気合いを入れている。
「いやあのどちらにせよ普通では無い。というか、わたし、置いて行かれているような気がするんですが」
突然舞台に引っ張り上げられた様相の匡子が、一番まともな意見を遠慮がちに挟んだ。