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#04

良い匂いがした。胃腸と唾液腺が刺激され、活発な活動を開始する。良い匂いが白米が炊けるものだと気付くと同時に、複数の話し声と障子を開ける音、差し込む朝日を感じ取って、美月の意識は半分ほど覚醒した。コンセントの都合ということで、昨夜美月たちが休む部屋に仕掛けられた炊飯器だが、今はもう目覚まし時計代わりに掛けられたのだとしか思えなかった。慣れていない部屋と布団にも関わらず、十分に()れた睡眠のお陰で、昨夜の夕食はすっかり消化されていて、空っぽの胃にこの匂いは強烈に響いた。

時間は午前五時を少しまわったところである。坊坂と藤沢は部活の朝練のため、八重樫は習慣で、普段からこの時間に起きているので、特に問題なく起床したが、それより一時間ほど長く寝ているのが常の美月は音や光や匂いを感じ取っていたものの、目を開けるのが億劫(おっくう)で、寝転がったままだった。坊坂は、身支度を整え終えるまでの間、ちらちらと、ひとり寝たままの美月の寝顔を(うかが)っていたが、やおら昨日一度も取り出されることの無かった筆箱を出し、水性の柔らかいフェルトペンを選んで取った。

「おい」

坊坂の意図に気付いた藤沢が、小さいが、(とが)める声を出した。

「ほっぺたに猫のヒゲか、おでこに『肉』か、どっちが良いと思う?」

坊坂は真顔で問い掛けた。問い返されるとは思っていなかった藤沢は少々戸惑った後、真剣に考え込み始めた。美月は無言で上半身だけ起こすと、今まで使用していた枕を両手で掴み、坊坂の顔目がけて一振りした。

「何だよ、起きてるのか」

枕で頬をはたかれたものの、痛手を受けた様子も、悪びれることも無く坊坂はうそぶいた。美月は無言で枕を抱え直すと、再び横になった。顔は(そむ)けた。

「ほっといてやれよ。須賀はいつも朝遅いじゃん」

腹筋と表情筋を目一杯活用して笑いを(こら)えつつ、八重樫が言った。悪戯が不発に終わった美月を残し、三者は、いつもの習慣通り、体を動かしに外に出て行った。

「ゆっくりでいいからね」

「両方だな」

前者は部屋から出しなに八重樫が美月に掛けた言葉で、後者は縁側から外に下り際に、藤沢が坊坂に向けた言葉である。美月は横になったまま、坊坂は一拍置いて、猫ヒゲと『肉』と両方、という意味だと気付いて、しっかりと、うなずいた。

結局その後三十分ほど寝床でぐだぐだしてから、美月は起きた。まだ少し働きが鈍い頭を、外水道の水で顔を洗って完全に覚まさせる。部屋に留まっていてもすることがないので、庫裡(くり)に向かうと匡子がせっせと朝食の支度中で、そのまま台所を手伝うことになった。熱湯を満たしたポットに鍋ごとのみそ汁。漬物、納豆、生卵。斤単位の食パンに大量のポテトサラダ、サラダというより切っただけの新鮮な生野菜。去年のお歳暮で頂いて消費しきれていないというジュース類とインスタントコーヒー。それらを部屋に運んでいると、石段か駐車場を使っていたらしく、そちら側から三人が戻って来た。空っぽどころかマイナスになっていそうな胃袋に、新しい栄養が詰め込まれた。


朝食が済むと早速今日のお仕事に向かう。今回の仕事場は墓地とその周辺である。野外での肉体労働ということで美月は除外され、別行動の予定だが、好奇心で墓地まで付いて来ていた。そして、坊坂、藤沢とともに絶句した。墓地は駐車場と大体同じ高度にあり、駐車場まで下りた後は平坦な未舗装の小道を歩いて行くのだが、その小道がもう、中心部分以外は道の外から伸びて来た雑草のせいで土が見えなくなっている。一応ステンレス製の手すりが脇に設置されているが、それを使うには雑草を踏み付けて行かなければならず、(かえ)って滑りそうだった。そして墓地はというと、山を切り開かれて造られているので、墓地の周辺は斜面になっているわけだが、そこの雑草が凄いことになっている。美月の背より高く伸びていて、傾斜に生えているものが重力に引かれ、墓地の隅の、古い何十年も人が参っていないような墓所に覆い被さっている。もはや緑の中に石が顔を(のぞ)かせている状態である。個々の墓所の中には草一つない綺麗なものもあるが、それはお参りに来るひとたちの手によるものだろう。

「…これ、業者入れた方がいいんじゃないか?」

坊坂がつぶやいた。昨日と同じ作務衣に、地下足袋と軍手が追加装備されてはいるが、『武器』は()く研がれてぬめるような光を放ってはいるものの、市販されている一般的な草刈り鎌である。素人の手作業でやるには少々荷が重く感じるのは当然だった。

「…ここまで酷いのは初めて。今までは母さんが時間がある時、掃除ついでにちょくちょく刈ってたんだけど、今年はもうこっちまで手が回らなかったって」

八重樫は複雑な感情を込めて、生い茂る緑を見据えた。

「とりあえず、墓地まで侵食して来てるところだけ。あと、ここまで来る道を通りやすいように。そこまでやればいいと思う」

八重樫の言葉に一同はうなずいた。時間さえ貰えれば、斜面の奥の方まで刈ることも(いと)わないのだが、草刈り以外にも済まさなければならないことが山積みだったのだ。

「じゃあ、俺はこれで」

美月は一言声を掛けると、建物に戻った。美月の担当は、お客に出す茶碗や茶托(ちゃたく)の洗浄である。普段は物入れの奥深く仕舞(しま)い込まれているそれらを、一度全部洗うか()くかし直すのだ。外水道の近くの日陰に陣取って、美月は白磁に淡く緑色で草木模様が描かれた高級そうな薄手の磁器と格闘し始めた。


「え?須賀?」

百を優に越える茶碗をきちんと洗って詰め直し、茶托にお盆や菓子器といった漆器の乾拭(からぶ)きに移った辺り、そろそろ日が中天に差し掛かる頃、美月は突然声を掛けられ、顔を上げた。聞き覚えのある声に美月は驚いたが、相手も珍しく驚きの表情を浮かべていた。

同じ学校の一年生で、隣の組の倉瀬(くらせ)英忠(えいちゅう)が立っていた。寺の表側から回って来たらしい。

「倉瀬、何で?」

「いや、えっと、電話したんだけど…八重樫のお母さんに。いるよね?」

美月がいることに相当戸惑っている様子の倉瀬だった。美月が、匡子がいるであろう庫裡(くり)の方を示そうとしたとき、倉瀬とは逆、裏方用の石段の方から、背中に鎌を入れた籠を背負って汗だくの、八重樫と藤沢、そして坊坂が戻って来た。坊坂と八重樫は何か話していた様子だったが、倉瀬に目を留めるとぴたりと話しを中断して、意外な来訪者を見やった。倉瀬は、坊坂と藤沢までいることに更に困惑した表情で、立ち尽くした。そこに当の匡子が、昼食用の握り飯の盆抱えてやって来た。

「あら、こんにちは」

倉瀬に目を留めると、微笑んで挨拶した。


倉瀬が電話を掛けて来たのは早朝、ちょうど美月を含めた四人が墓地に行っている時だった。倉瀬が名乗る際に、八重樫と同じ学校の…と説明したため、匡子は一日遅れで美月たち以外の友人が来るのだと思い込み、訪問を軽く了承したとのことだった。隣の組の所属で、坊坂と実家が商売敵同士になる倉瀬は、友人かと問われると即座にうなずける相手ではないのだが、追い返すほど険悪な仲でもない。そのまま共に食卓を囲むことになった。倉瀬は昼食後に出直そうとする素振りを見せたのだが、八重樫が無視して匡子を(うなが)し、食事は二人分追加された。

二人分。一連の間、始終無言のままだったが、倉瀬には連れがいた。中背で細身の倉瀬を、身長はそのままに更に細くしたような、ひょろりとした体型の男だった。年齢は美月たちより少し上、大学生くらいだろうか。顔立ちは、眼鏡の無い倉瀬に似ているが、整っていはいるものの時々険のある倉瀬と異なり、覇気がないというか(とら)え所の無い表情で、(くう)を見やっていた。その男は、昼食の準備がされている間もずっと、寺の裏手に棒立ちのままで、何度呼びかけられても反応せず、(しび)れを切らした倉瀬に腕を強引に掴まれて、ようやくまともに腕を掴んだ相手の顔を見た。

「凄いところだね。なんだろう、毛玉?」

苛立(いらだ)った様子の倉瀬と対照的に、ぼんやりとした表情を崩さず、男は言った。


男は倉瀬の実兄で、倉瀬英凌(えいりん)と名乗った。去年、高校を卒業したということで、美月たちより三つ上ということになる。今は実家にいて、特に何もしていないとのことだった。

あわいのひと(、、、、、、)なんだな」

昼食を()る間は、さすがに食べることに集中していたようだが、その後は縁側に腰掛けて、またどことも知れない場所を見ている英凌を見ていた坊坂が独り言めいたつぶやきを漏らした。倉瀬は食後のお茶を前に、視線を坊坂に向け、兄に移し、また茶碗に戻した。

「そう言ってもらえるだけ、有り難い。知らないひとから見ると、単なる間抜けだから」

苦々しげにつぶやいた。

「あわいのひとって何だ?」

藤沢が声をひそめて隣にいた美月に尋ねたが、美月も知らなかったので首を振った。藤沢は声量を落としたつもりだったが、地声が大きいので、部屋にいる他のひとびと、坊坂、八重樫、倉瀬の全員に聞こえていた。

「常態的に神様とか何かの精とか妖怪とか死霊とかその他もろもろの『ひとならぬもの』の影響を受けて、日常生活がままならないひとのこと。この世とあの世、もしくは違う世、その狭間(はざま)()わいに居るようだから、って」

聞き留めた八重樫が説明してくれた。倉瀬はうなずくと、八重樫に真っ直ぐ向き直って、来訪の目的を告げた。

「英凌が、翠康(すいかん)について、話しを聞きたいって」

そう切り出されると、八重樫の眉がぴくりと上がった。坊坂は、一瞬、様子を伺うように八重樫を見、倉瀬を見た。無表情を崩さなかったが、余りいい感情を抱いていないことが分かった。特殊能力を持ち、特殊能力者のための学校に在学しているものの、一般家庭の出で『除霊ビジネス』業界のあれこれについて(うと)い美月と藤沢は訳が分からず黙っていた。

「なんでまた?」

八重樫の問い掛けに倉瀬は首を振った。

「分からない。今朝突然、尊雀寺に行くって言い出して。一人では危ないし、アポを取るとかの考えもないから、俺が電話して、付いて来た」

極力感情を抑えてそう言いつつ、兄を見やった。相変わらず縁側で、(ほう)けている。こちらの話しは聞こえていない様だった。

「もともと、色々な高僧や名僧の逸話を読んだり聞いたりするのは好きだったんだ。けれど、うちもこの時期忙しいし、そういうときは基本大人しくしているひとなんだが」再び視線を八重樫に戻すと倉瀬は尋ねた。「それで、その…話しは、しても大丈夫か?駄目なら駄目で、無理は言わない」

八重樫は思案顔になった。美月は、取り敢えず、すいかん、が僧侶の名であることと、その僧侶と八重樫が何かしら関係があることは分かった。そういえば、と、以前八重樫が上級生と問題を起こした時、その理由が同じ宗派の僧をけなされたからだった、と思い出した。

「…ちょっと待ってて」

思案の後、一言言うと八重樫は部屋を出て行った。

「出来れば、すいかん、とか、その他事情を説明してくれると嬉しいんだが」

八重樫が去ったのを見届けると、藤沢が坊坂に声を掛けた。美月も同じ心境で坊坂を見やる。坊坂は少し逡巡したが、この業界の関係者は皆知っていることだから、と前置きして話してくれた。


ここ尊雀寺を含む、厳礎(ごんそ)宗ではいわゆる魑魅魍魎(ちみもうりょう)悪鬼羅刹(あっきらせつ)(たぐ)いの存在を認めていない。それらは皆、人の心が生み出した空想上の怪物で、それを許す弱さを克服することこそが仏の教え、と、そういう理念である。そのための精進の一環として槍術の修行がある。今から五十年ほども昔になるが、その槍術で名を成した僧侶がいて、それが翠康だった。槍術の技倆(ぎりょう)はもちろんのこと、身の丈六尺を超える大男で怪力無双、まるで鬼の様、などと称された僧侶だったのだが、実際に鬼、『ひとならぬもの』と対峙(たいじ)退(しりぞ)ける、という事を何度もしてしまった。単に人身相手に強いだけでなく、いわゆる霊能力を持っていた訳である。ただ、宗派がそれらが存在することを認めていない以上、除霊だの悪鬼調伏だので名前が売れてしまったことは頂けなかった。他の僧侶の嫉妬も加わり、お定まりに教えに反するということで、僧籍を剥奪され、追放。その後は人も知れない山奥で一生を終えた。

「そういう訳で、ここの宗派ではある種の禁忌に触る人物なんだよ」

美月は先程の、倉瀬の持って回ったというか、予防線を張ったような言い回しに納得した。

「で、ここの住職、あ、副住職か、がその翠康の知人とか、そういうことなわけか」

「いや…その…八重樫のお母さんが、最後に翠康を看取ったひとなんだよ」

美月は目を(しばたた)かせた。ここで匡子が出てくるとは思っていなかった。

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