#38
照りつける日差しと耳鳴りかと疑うような蝉の鳴き声が山中に響いている。立っているだけで汗が流れ出てきそうな暑さの中、引っ越し会社の社員たちは、慣れた手つきで尊雀寺の裏、庫裡の勝手口から、合成樹脂の衣装ケースを幾つも運び出し、階段を下りた先の駐車場に停めてあるトラックのコンテナに積み込んで行った。中身は匡子の衣服や雑貨である。手元に必要な日用品を除いて、六畳一間と押し入れに収まっていた私物は全ては梱包されて、目的地、石顕氏が住職を務める寺へ送られるのを待っていた。廃工場で騒動があったのが二日前。随分と慌ただしい出発になってしまったが、これは事実上、司法関係の各種手続きや雑事を成り代わってくれた英慎の意思が働いている。何を言い出すか分からない英凌をなるべく遠ざけたいのと、巌礎宗と千滝宗のどちらか片方を立てなければならないような場面での証言に不安のある匡子をさっさと取り込んでしまおう、という目論見である。
英慎を含む一同の記憶では、二日前の死闘は、漆嘉遍と寧礼の仲間割れと同士討ち、そこを突いた八重樫たち高校生組の無茶で解決したことになっていた。昂美童子の介入部分が総じて切り捨てられたわけである。死者が出るほどの闘いが繰り広げられたのに、生き残りの面々に傷一つ無いという矛盾の理由付けとして、美月が漆嘉遍に同調して中から弱らせると共に、力を少々、無理矢理に拝借して、いつもより強めの治癒能力が使えた、などという改竄もあり、美月が皆から命の恩人扱いされる、などというおまけも付いてしまった。正確な記憶を残している英凌は、時折他者の記憶とは辻褄が合わないことを言っているようだが、普段の言動もあり、問題にはなっていなかった。
寧礼は、美月と匡子の誘拐を依頼した件と、誘拐の実行犯たちの殺害に関して、警察の世話に至った。もっとも誘拐犯たちの死体が、どう見ても人間業ではない、常軌を逸した状態になっているものだったので、白を切り通せば逃れられるかもしれない、とは土浦弁護士の言である。もっとも、法律的な殺人の刑罰から逃れたところで、寧礼が幸せになるとは美月は思えなかった。坊坂は笑顔で、坊坂のところで同じ様なことが発生すれば、加害者は人体実験の材料になるかな、と怖いことを言っていた。実際にそうなのか、千滝宗に対する牽制なのかは分からないが、軽い処罰で終わらせられることはないだろう。そもそも激情が去った寧礼自身が、志保の殺害については発狂寸前なほどに悔いていた。志保たちの殺害は、遺体そのものを隠すことで表向きはなかったことにされているが、千滝宗の面々が、無言で志保の頭部を形成していた破片を掻き集めている姿は、しばらくの間、寧礼のみならず居合わせた全員の安眠を妨げる要因になった。
「ちょっと早いけど、寮に戻ることになるね」
駐車場から荷物が搬出されて行くのを見届けて、墓地に続く道すがら、美月は藤沢に話しかけた。本当はもう数日、尊雀寺に滞在する予定だったのだが、八重樫も一旦、母と共に石顕氏の元へ行くことになったため、二者のいない寺に居座り続けるわけにはいかなかった。藤沢は今日一晩、泊まった後に寮に戻り、美月は実家に向かうことになっている。美月の言葉を聞いていた坊坂が溜め息を吐いた。坊坂は元々、美月と藤沢より早く実家に帰省することになっていたので、予定通りなのだが、一番愚図愚図言っていた。
「どこかに、もう数日、いられないかな。今回の件で、もう数日間、自由にして良いってお達しがあったんだけど」
ごたごたの解決に一役買ったので、そのご褒美らしかった。
「なら、こっちに一緒に来るか?学院並に辺境だって話しだけど」
八重樫が提案した。決定権などないのだが、この状況では断られることはないと、勝手に判断しての物言いである。
「それもありかな」
坊坂が本気で悩む中、一同は墓地に着いた。総本山から匡子の仕事の引き継ぎに来ている修行僧が、草刈りをしていた。取り敢えず、盆が終わるまではここでお務めをするそうだが、恐らく盆が終わっても居続けることになるのではないかと、美月は思った。コンビニ店員の情報が正しいかどうかは分からないが、副住職と、副住職が雇いたがっている女の子に身辺調査が入っていることを八重樫が教えてくれていた。
「蚊取り線香、取ってきてもらって良いかな?」
美月から、引っ越し会社の社員に心付けとして渡した残りの冷えたペットボトルを受け取りつつ、修行僧はそう依頼した。当然だが、草生した墓地周辺一帯は蚊の一大生息地である。美月は軽く返事をし、草刈りを始めた友人たちを残して、寺に戻った。勝手口から入り、蚊取り線香や殺虫剤などが常備されている棚まで行こうとして、隣の部屋の引き戸が開いていることに気付いた。部屋のほぼ中央に匡子が座り込んでいて、手荷物として持って行くらしい小型の段ボールを前にして、何かを見ている。美月が声を掛けるべきか迷って動きを止めた一瞬、匡子が顔を上げると、美月に向けて楽しそうに微笑んだ。美月は好奇心を押さえきれずに部屋の中に半身を入れた。
「何を見てらっしゃるんですか?」
匡子は無言で手の中のものを示した。美月の顔がほころんだ。二つ折りにされた黄緑色の画用紙の半面に、白い画用紙に色鉛筆で髪の長い女性と思しき顔が描いてあるものが貼ってある。もう半面には色とりどりの星や、ハートや、花丸が描かれて、その上に黒の水性ペンで、きょうこへ、で始まるひらがなが踊っていた。
「あの子がね、初めてわたしにくれた手紙なんです」
文面と、学年と組の入った署名で、小学校一年生のときの、母の日の贈り物として図工か何かの時間で作られたものだと分かった。
「宛名を、名前で書くんですね。お母さんへ、とかじゃなくて」
美月の疑問に、匡子は苦笑を返した。
「わたしのせいなのですけどね、あの子、小学校に通う歳になるまで、山の中で生活していたので、読み書きをほぼしたことがない状態だったんです。小学校に通うようになって、授業で手紙の書き方を習ったときに、始めに相手の名前を書くって言われたらしくて、それが染み付いてしまって。今でも手紙の中では名前で呼んでくるんですよね」
段ボールの中には他にも、母の日や誕生日で送ったらしい手紙やカードが詰められていた。
美月はほころんだ顔のまま、蚊取り線香と、ついでに虫除けスプレーも携えて、再び墓地に向かった。




