#37
「さて、汝れは如何様になることを望む?」
仲間たちが全て消滅し、力なく項垂れる漆嘉遍に向けて、昂美童子は感情の無い声で尋ねた。漆嘉遍は無言で首を振った。その姿は美月であっても首を折ることが可能ではないかと思われるほどに、弱り、疲れ切っていた。
「望むことはない、か。ならば汝れの記憶を吾れが貰い受ける」
不意に電源を入れられた機械のように、漆嘉遍は、ぐわりと顔を上げた。
「待て、それは、私が、全てを忘れるということか?」
明確な意志を持って尋ねてきた。昂美童子は腹の底から楽しそうに笑いつつ、問い返した。
「…そうであれば何とする?」
「嫌だ!」漆嘉遍の叫びが、既に暗闇の落ちた工場内にこだました。「あの者たちのことを忘れてまで、存続する気は毛頭ない!」
「…言うても、汝れもまた全てを覚えているわけではあるまい。汝れが輩たちの、初めの姿は覚えていても、何であったのかは名指せぬのだろう」
「それでも、それでも」漆嘉遍は、片手を床につき、逆の腕で目元を押さえ、懇願した。「頼む」
嗚咽が漏れている。昂美童子は無言のまま、つまらなそうに漆嘉遍を見ていたが、やおらその固定化した膝から下を解放した。泣き続ける漆嘉遍は、しばらくの間、足が元通りになったことに気が付かなかった。
「そこなもの、結を解け」
やはりつまらなそうな様子のまま、昂美童子は命令した。二十代の男二人に、逃げ出さないよう両腕を取られている寧礼は、切れ長の目に真っ直ぐ見据えられると、ひくりと顔を引きつらせ、次にがたがた震え出した。
「逃すのですか」
確認したのは英慎だった。英慎としては、漆嘉遍を捕らえて寧礼と組むことになった経緯を吐かせたかった。だが、昂美童子が一つ、深く、うなずくのを見て、無理だと悟った。事実上命を救ってくれた相手に対して、これ以上あれこれ望むわけにもいかない。英慎が、納得したわけではないが、処置に賛同したと見て取った除霊担当者の一人が叱咤して、寧礼に結界を解除させた。足も、この場からも、自由にされた漆嘉遍は、緩慢に立ち上がり、ふらふらと、出入り口がある側とは反対側に向かった。そちらは壁のみで出入り口どころか窓も無かったが、壁に追突する寸前のところで、全体的に白っぽいその姿が半透明に透け、壁をすり抜け、出て行った。
「憐まれたのですか?」
結界が解かれたため、自動車の走行音と、耳に痛いほどの蝉の鳴き声が、一同の耳に届いている。それに負けぬ様、やや声を大きくし、漆嘉遍が消えて行った壁の一面を見ながら、英慎は尋ねた。
「まさか。ただ、あれは放っておいても長くは保たぬというだけ」
「あのひとの行く道、一人だけ、違うよね」
昂美童子が答えるのとほぼ同時に、英凌が声を上げたので、英慎を含めた何人かは、驚いてそちらを見てしまった。
「あれは、あれの輩たちのように、元へ行くことは出来ぬからな」昂美童子は半ば独り言としてつぶやいた。「輩たちは、ただ衰え、元に行こうとしていただけ。穢れに侵されているのは、あれ自身に他ならぬ。故に人里で、人の仔の間にて、散らせた方が良い」
『…』
考え込んだ様子の英慎を首めとする一同に、昂美童子は笑いかけた。
「そう悩むな。その必要も無い。吾れも含め、あれのことも、汝れらが理解しやすい形にしておく故」
「それは…」
どういう意味かと尋ねかけたところで、八重樫と英凌を除く一同の記憶が、書き換えられた。




