#33
腹部の解放感と、全身に受ける空気抵抗を同時に感じ取り、一瞬遅れて、黒い輪の縛めから解かれ、落下の最中にあることを、美月は理解した。
「無理を強いるぞ」
「…っぐ」
美月は状況を理解するや悲鳴を上げかけたが、先程聞いたのと同じ、誰のものか覚えの無い低い声が脳裏に直接響き、それと共に流れ込んできた膨大な力に物理的な圧力すら感じて、くぐもったうめきを上げるに留まった。視界が白くなり、音が遠くなる。以前、八重樫を助けるのに貸してくれたものと同じ力だと認識すると同時、それまでも無意識に発動させていたらしい治癒能力が、もの凄い勢いで活動を始めた。
工場内にいる面々の身体の状況が手に取るように分かった。何人かは、身体を巡る血液量が酷く少なく、血圧も下がり切っていて、瀕死の状態である。美月はまず、失った血液、欠損した四肢や損傷の激しい臓器を復元させた。細胞の持っている記憶、人体の設計図を引きずり出して、その通りに作り直させる。当然、人の体を構成している各種元素の不足に陥ったが、その分は、力を貸してくれている誰かが勝手に処理を行ったらしく、周囲のあれこれから取り出してきてくれた。後はもう各人の自然治癒能力が最大限に引き出されるよう、流れ込んできた力で働きかけるだけで良かった。膨大な力を注がれたそれぞれの身体は、海嘯が全てを押し流すかのように、障害を全て押し切って、自らを治して行った。
美月が地面に足を付けたときには、全てが終わっていた。軽傷の者も重傷の者も快癒し、意識を失っていた者も目覚めていた。もっとも当の美月は足を下ろしたものの立てる状態ではなく、膝をつき、両手をついて体が倒れ掛かるのを支えた。着地が随分柔らかなものだったことに気付いたのは両手をついた後である。顔を傾け、瞳を動かし、美月は傍らを見た。落下中の自分の体を支えていてくれ、やんわりと地に下ろしてくれた存在がいた。黒い輪に捕われていたとき、その位置にいたのは匡子だったが、今は違った。一応、人らしき形を取っているらしいが、輪郭と色がぼやけていてしまっていて、水を含ませ過ぎた何種類かの顔料が宙に浮いているようである。美月は初め、疲労で目が霞んでいるのかと疑ったが、どうもそうではなく、ただ個体識別が可能な人間としての姿を放棄しただけだと思い至った。そして視覚とは別に、直感で、それが力を貸してくれた存在だと確信した。
『え…?』
何人かが惚けた様な声を上げた。死の淵に立っていた坊坂や藤沢、意識を失っていた除霊担当者の一人は自身の余りの変化に理解が追いつかなかったのか特に声が大きかった。起き上がり、失った筈の手足を動かしたり深い傷を負った筈の部分をさすってみたりして、元通りになっていることに唖然としている。美月が工場内の人間全てに対して治癒を行ったので、他者と同様に傷が癒えてしまっている寧礼も放心状態である。漆嘉遍は声こそ上げなかったものの、しばしぼんやりと地に降りた美月とその隣を見つめていたが、突然我を取り戻し、叫んだ。
「昂美童子、いや『知識』、か!?」
「気付けよ」起き上がり、地面にあぐらをかいている八重樫がつぶやいた。「当人に行方を尋ねるとか、何のギャグだよ。人間でも波長の合うタイプだと簡単にバレるのに」
独り言で声が小さかったため漆嘉遍には聞こえていなかった。だが、漆嘉遍より近い位置にいた英慎の耳には届いていた。それまでは、内心はとにかく表面上は平静を装っていたのだが、はっとして長子を見やる。傷は回復しても、服は元には戻らず、落ち武者のような姿で座り込んでいる英凌が、薄く苦笑していた。
「なら、ならば…知っているか!?この者たちをどうすれば元に戻せる?この者たちは私と共に御前を務めていた者。しかし穢れに侵され、今はこの有様。私はこの者たちを救いたいのだ!」
漆嘉遍が叫ぶと、やおら、美月の隣に佇む色付いた霞のような存在は、収縮、固形化し、ひとに似た姿を取った。膝の辺りまである長い真っ直ぐな黒髪と色白の肌。白の小袖と紫色の袴を身に着けている。藤沢並の長身と体格だが、出るべきところがこれでもかというほど出ているのと、切れ長の目を持つ美しい顔で、女性を模してるのだと分かる。そして、額から二本、白磁の角が生えていた。恐らくこれが『昂美童子』として世間に知られている姿なのだろう。美月は、夢の中での八重樫が、同じような角のある姿をわざわざ設定していたのを思い出した。
昂美童子は、艶然とした。美月はその笑みをどこかで見たことがあると思い、一瞬の後、八重樫とそっくりなのだと気が付いた。むろんのこと、匡子の顔と違い、昂美童子とは顔立ちが全く異なる上、艶かしさは皆無なのだが、笑みの作り方が八重樫の、誰かに向けて攻勢を掛けるときに見せる笑みと、同じだったのだ。
「ああ、知っておる」
件の低い声で、昂美童子は応えた。女性の声としてぎりぎりの範疇の低さだが、そもそも実際に発声器官を用いて声を出してるとは限らない。
「どうすれば良い!?」
漆嘉遍は身を乗り出さんばかりだった。昂美童子は面白そうに問い掛けた。
「知って、どうするのだ?」
「もちろん、その通りにする」
「吾れが虚言を弄していないことを、どう判断する?」
漆嘉遍が動きを止めた。愕然として、昂美童子の、効果音が聞こえてきそうなほどにひとの悪い笑みを浮かべた顔を、見つめている。
「輩で試すのかえ?汝れが輩は本当に幸福ぞ。汝れのような頭の働く仲間を得ているのだから、なあ」
美月は確信した。昂美童子がわざわざ女鬼としての姿、というより、表情を作れる姿を取ったのは漆嘉遍を嘲笑するために他ならない、と。
「で、どうするのだ?」
昂美童子はからかう口調で言い募った。漆嘉遍は口を開きかけ、方策が見つからなかったのか、また、閉じた。昂美童子はくすくすという笑い声を漏らした。
「まあ、良い。吾れは吾れの好きなようにさせてもらう」
「…好きなよう?」
「汝れ、まさか吾が養い子を傷付けておいて、放免されると思うておうたのか?」
漆嘉遍の目が見開かれた。
「そう、取り込んで、糧にすると言うておうたな。吾れを半分にする、とも。では、まず汝れの輩から。…そういうことで、郁美、よろしくね。ああ、皆さん、この子が治癒能力を使ってくれているので、怪我は即時回復しますし、精神的にも最上級の集中と安定を保っていられます。どのような術でも連続使用が可能ですよ。傍観がお嫌なら、どうぞ参加なさって下さい」
途中からは声色と口調だけ八重樫匡子のものにして、美月を示しつつ、昂美童子は言った。




