#32
腹ごしらえを終えた後、美月は、ソファを出入り口の扉とは事務机を挟んだ反対側に移動させて、死体が目に入る機会を極力減らした配置を整えると、他にすることも無いので、精神的安寧を保つために、部屋の中に残されていた新聞紙やチラシ、何かの包み紙でひたすら折り鶴を作っていた。防災用品入れはもちろん、その他各所を探しまわったものの替えの電池が無かったので、懐中電灯は点けずに暗闇の中、手探りだけで折っているのである。今は匡子がソファの上で横になっていて、美月は床に座り、色々と必要なものを提供してくれた防災用品入れの箱を机代わりにしていた。しばらくの間、部屋の中には美月と匡子の呼吸音と、美月が紙を折る際に上がる、かさかさという音以外がなかった。
美月が部屋の空気の変化を感じ取ったのは、二度目の昏睡から覚めてから十二時間以上が経過し、匡子の腕時計が午後六時過ぎを指した頃だった。微かに、窓の隙間から風が入ってきたような気がして、気のせいということも考えられたが、取り敢えず懐中電灯を灯す。明かりに気付いた匡子が、体を起こした。
「何かありました?」
匡子の問い掛けには答えず、美月は無言のまま立ち上がり、窓辺に寄った。窓に手が触れるかどうかといったところで視界が歪み、三半規管に影響を受けた美月は激しく気分が悪くなって、窓から離れた。
「一瞬、窓から風が来たような気がしたのですが…」
ソファの傍に戻った美月は、つぶやきつつ首を振った。明かりを掲げて部屋の中を見回し、目に入れたくはなかったが、扉付近も含めて、部屋中の様子を探る。部屋の中に変化はなかった。あきらめて懐中電灯を消そうとしたとき、はっきりと扉の向うから音が聞こえてくることに気付いた。複数人の足音のようである。匡子も聞き留めたらしく、美月と顔を見合わせた。
「扉からなら出られるかも」
美月の観測に、匡子はしかし、首を振って反対した。
「危険です。やつらが仲間を呼んだのかも。…それに、扉の前は…」
匡子は言葉を濁した。美月も、扉を開けるには、その前に居座っている死体をどかさなければならないことは分かっていた。ただ、一部を除いて台車に乗せっぱなしなので、死体そのものに直接手を触れたりすることなく、ひとが通れるくらいの移動をさせることは可能である。そうこうしている内に、今度は明らかにひとの上げた悲鳴が、空気を裂いて扉一枚挟んだこちら側にまで響いてきた。部屋の中の二人は、ぎょっとして扉を見やった。美月は決心した。
懐中電灯を机の上に置くと、扉に近づく。これも防災用品入れの中から見つけた軍手をはめて、なるべく有機物の部分は見ないようにして、台車のスポンジグリップを握り、押した。全く動かず、そこでフットストッパーが掛けられていることに気が付いた。足で押して解除する。匡子が来て手を貸したので、それほど苦もなく台車は動いた。扉の前の床には、既に凝固しているが血溜まりがあった。踏みたくはなかったが、跨いで行けるほど小さくもないので、仕方なく耐え、美月は扉の前に立った。案の定、部屋が歪むことはない。そっと取っ手に手をかけて回してみると、簡単に動いた。美月は匡子にうなずいてみせると、匡子を背後にかばいつつ、ゆっくりと扉を開けた。外光の明るさに目が眩むが、すぐに慣れた。それよりも、予想外に、きい、という軋みが大きく響いてしまい、美月は総毛立った。
そして、憎悪に満ちた漆嘉遍の目と、視線がぶつかった。
『下がれ!』
叫んだのは、他に比べて傷が少なく意識もある英慎と倉瀬だった。だが美月がその声に反応して扉を閉めるより早く、中空に漂っていた黒い輪が一直線に飛来した。外開きの事務所の扉の隙間からするりと入り込む。美月は反射的に片手で匡子の体を抱きかかえてかばったが、黒い輪はふわりと、美月と匡子、二人をまとめて輪の中に入れ、胴体を捕らえると、部屋の外に向かった。美月は手を掛けたままだった扉の取っ手を強く握って抵抗したが、黒い輪は気にもかけない軽やかさで二人を部屋から引きずり出し、一気に天井近くにまで上昇した。腹に食い込んだ黒い輪に吊り下げられている状態である。そこに自分の全体重が掛かり、美月は息が詰まってむせた。宙吊りの体がぐらぐらと揺れた。
「…郁美?」
上空から息子の姿を見つけた匡子が、呆然としつつ声を上げた。美月とほぼ同じ体勢だが、体重が少ない分影響が軽く済んだのか、声が出せたらしい。と、突然暴れ出した。
「え?ちょっと、え?何、どうしたの?怪我…血がいっぱい…誰?誰にやられたの!?」
八重樫が血まみれで、手首と足首の四分の三を失って倒れていることを認識したらしい。黒い輪の縛めから解き放たれれば墜落するしか無いにも関わらず、身を捻り、脚をばたつかせる。匡子が動いた分の皺寄せが来て、美月の胴体は更に締め上げられた。
「まずご自分の心配をしたら如何です?」
地面から起き上がりつつ、漆嘉遍が嘲笑した。匡子はぴたりと動きを止めると、漆嘉遍を睨みつけた。睨まれたところで影響も無い漆嘉遍は、坊坂の炎を受けた部分を手で払った。煤を払う仕草だが、実際に起こったのは、ところどころ焼失し、白い断面を見せていた部分が復元されることだった。表向き、漆嘉遍が受けた炎の影響は消えた。次いで、倒れていた黒いひとのような姿のものが、びくりと一つ痙攣すると、粘土を捏ねるように、焼け落ちなかった部分を収縮させ、体積が半分ほどになりながら、再度、ひとのような姿をとった。漆嘉遍は今は小学生くらいの身の丈になっているその姿を見、次に怨讐の念が籠った目を八重樫に向けた。
「…よくも、仲間を、このような姿にしてくれたな。貴様を食らう前に、貴様の母を先に同じ姿にしてやる。よく見ておけ、半分にすれば良いな」
淡々と宣言した。地面に突っ伏して、顔も起こすことが出来ないほど衰弱している八重樫だが、その言葉を聞いて、身を震わせて笑い出した。
「ほんと、あんたさ、ほんっとうに、元、御前?何だかねえ、言うこと、ってかやることが、いちいち低俗なんだよな」
八重樫は、息をするのにも苦しそうな様子ながら、言葉を紡いだ。漆嘉遍はつまらなそうにつぶやいた。
「それだけか?どうせなら母への感謝の念でも述べれば良いものを」
「ああ、そこだ。あんた、母親を理解しているんだよな。人間の習性は分からない、とか、言ってるのに。まあ、でも確かに感謝は、必要だね。どうもありがとう。高校の費用、後に二年分、よろしくね。あと、大学の費用も出してもらえると嬉しいかな。それと、俺が今こうなってるのは、そいつ。母さんを今捕まえている奴が、やった」
「そうか」
聞き覚えの無い声がすぐ近くで聞こえて、美月は顔を上げた。




