#31
眼前には黒いひとのような姿のものの口に当たる部分の白い空洞がある。そこから漏れる、ぶくぶくという音が、聴覚だけでなく視覚も支配しているような感覚を受ける。それにも関わらず、扉の開く音と微かな空気の動きを、坊坂の肌は感じ取った。目の前に迫ったところで突如、電池切れを起こしたかのように停止した黒いひとのような姿のものに注意を向けたまま、坊坂は眼球のみ動かして音の方を見た。消失した脇腹からの出血と痛みで半ば朦朧としているにも関わらず、開かれた応接室の扉の枠にもたれ掛かった、これで三度目の邂逅になる、『ひとならぬもの』の姿は妙にくっきりと見えた。
漆嘉遍は応接室の扉のすぐ隣に転がっている寧礼を、無表情に見やった。その近くには、仰向けに倒れ、脇腹を押さえる若年の男と、男の頭部を今にも食い千切ろうとしていた仲間の姿があった。
「一体、何事ですか」
寧礼に問い掛けた。寧礼の張った結界の中で休眠状態に落ちたことは覚えていた。その後、外界の変化を感じ取り、覚醒すると、部屋に張ってあった結界は消え失せ、代わりにもっと広範囲に張り直されているのが分かった。その中で、仲間たちが勝手をしていることも感じ取って、全ての行動を制止させつつ、部屋から出てきたのだが、何故仲間たちがしたい放題することになったのかは、全く不明だった。工場の中には、仲間たちが気侭にそれぞれの場所を陣取っている。今は漆嘉遍の命に従って動きを止めているが、それまでに相当暴れたことは見るまでもなく明らかだった。
「う、あ」
寧礼は返事をしなかった。引き裂かれて血の滲む頭皮を押さえ、うめくだけだった。漆嘉遍は視線に冷ややかなものを加えると、軽く息を吐いた。
「七つめ、か」
渋い声が響いた。それほどの大声ではなかったが、黒いものたちが一斉に動きを止めたことで、静寂が落ちていた工場内には良く響いた。英慎の問い掛けだった。
「そうです。目敏いものがいるようですね」
単に数を数えたのではなく、漆嘉遍たちが七体で一組を形成している意味を分かっていると思い、そう答えた。
「母さんは?母さんはどこにいる」
「母?」
続いて掛けられた声に、漆嘉遍は声の主の方に顔を向けた。足を投げ出して座り、左手で右手首を押さえている。周囲にかなりの量の血が飛び散っていた。
「ああ、貴様がそうなのですか。間違えられた元ですか」
「どこにいるんだ?」
「ここですよ。…貴様も翠康を知っているのですか?」
粗略に答えると、漆嘉遍は逆に問い掛けた。
「知っていたら、何だっての?」
苛立った八重樫の返答を聞くと、漆嘉遍は大股で八重樫に近づいた。黒いひとのような姿のものが、覆い被さっていた坊坂から離れると、その後に従った。途中には数人の、まだ意識のある千滝 宗の人員がいたが、漆嘉遍たちが余りに自然に動くので、咄嗟に反応出来なかった。
「昂美童子の行方を知っていますか?」
八重樫の傍まで来て、満身創痍のその姿を見下ろしつつ、漆嘉遍は尋ねた。
「…は?」
「貴様の母にも聞いたのですがね、何も知らないと。貴様は、翠康と同類で、力があるもののようだ。知っていることがあるのでは?教えなさい」
八重樫は、穴の空くほどまじまじと、漆嘉遍を見つめた。
「あんた、まさかそれ聞くために、わざわざこんな大掛かりなことをしたのか?」
ややあってから、逆に問い掛けた。呆れ具合が声色に出ている。
「それが何か?」
「直接来れば良かったじゃん」
「出来るのであれば、そうしていますよ。人の仔の習性や里の決まりは良く分かりませんのでね。出来る方法で近づいただけです」一旦言葉を切ると、少し語気を強くした。「それで、知っていることは?」
「…里、っていうか人間の時間の流れ方は理解出来ているか?俺が生まれたのは十五年前、昂美童子と翠康が袂を分かったのが四十年以上前。生まれていない俺が、知ってるわけ、ないだろ」
「…全く、どれもこれも役に立たない」
漆嘉遍は溜め息を吐いた。いやに仕草が人間臭かった。
「まあ、知らないのなら仕方が無い。腹を足しになるほどの力はあるようですし、貴様が気付かないだけで、実は知っていることがあるのかも知れぬし」
黒い輪が、自分と八重樫が遣り合った記憶を伝えてきていた。黒い輪との実力差は話しにならなかったが、程度の低い『ひとならぬもの』と対峙出来るくらいの力はあると感じた。漆嘉遍は、妙泉尼の記憶を得たのと同じ方法で八重樫の記憶を手に入れようと、その手を伸ばしたが、八重樫が身を仰け反らせて笑い出したのを見て、止めた。
「何がおかしい?」
「いや、だって、腹の足し、ってあんた俺を食う気なわけ?そういう方法で記憶を継ぐことも出来るのは知っているけどさあ、踊り食いするつもり?ねえ、あんた本当に、御前を務めていたの?祇でしょう?もっと神格の高い祇様の前を歩いて、穢れを取り除くお仕事、していたんでしょう?穢れの発生源って一番多いのは生きた人間じゃなかったっけ?穢れに染まってどうにかなっちゃうものが多いのは知っているけど、食べたくなっちゃったの?あ、中毒者?それとも…」
言葉半ばで、漆嘉遍は八重樫の腹に蹴りを入れた。八重樫は笑みの形を顔に残したまま、左腕で漆嘉遍の足を抱き留めた。予想外の行動に出られ体勢を崩した漆嘉遍の体が、一瞬にして白い炎に包まれた。空気を裂くような悲鳴が工場全体に響いた。推移を見守っていた英慎が、気合いとともに虚空に拳を突き出した。到底届く距離ではないのだが、漆嘉遍の胸の中心部がへこみ、悲鳴が潰れてうめきになった。ほぼ同時に、黒いひとのような姿のものが漆嘉遍に体当たりを掛けた。漆嘉遍は炎から逃れ、地面を数度転がった。八重樫も途中で手を離したものの、引きずられる形になって、地に伏した。漆嘉遍の代わりに炎を受けることになった黒いひとのような姿のものは、その体積の半分近くが灰となり、焼失し、立っていられずに、倒れた。一方で、転がるものが英慎に体当たりを掛けたが、倉瀬に懐剣を突き立てられ、後退した。
「き、さ、ま」
漆嘉遍は地面から上半身を起こすと、凄まじい目で、炎を放った坊坂を睨みつけた。全力で仕掛けた結果、坊坂はもはや指一本動かすことが出来なくなっていたが、まだかろうじて意識を保っていた。
何かが軋む音が響いた。僅かに視線を坊坂の横にずらした漆嘉遍の目と、事務所と表示のある扉の取っ手を握った美月の目があった。




