#03
新幹線と鈍行、タクシーを乗り継いで数時間。学院を出たのは早朝だったのに、今はもう昼過ぎである。梅雨明け宣言が出た直後の地域は、これでもかというほどに晴れ上がっていた。緑が濃い。国道を走ってきたのだが、時々重々しいトラックが制限速度以上で駆けて行く他は、ほとんど車の往来が無い。道の端、雑草が生えた敷地に投げやりにも思えるように設置された、いくつかの看板は、キャンプ場への道案内以外は錆びて日焼けし色褪せていた。最後の案内と思われる、キャンプ場入り口、の文言と矢印が描かれた看板は、まだ新しく、駐車場が凄まじく広いコンビニの看板の下にあった。
「コンビニある。すげえ」
藤沢が声を上げた。むろんコンビニを見たことがないわけではなく、普段の生活場所が山奥の木と土以外何もない所なので、久し振りの再会に感動したのである。
「じゃ、ここから歩くから」
八重樫に言われ、一同はうなずいた。ここは八重樫が育った尊雀寺の駐車場である。下に国道と、国道沿いに建てられたコンビニを見る山の中腹にあり、ここから寺の建物までは、自動車では入れなかった。バックパックやスポーツバッグなど、思い思いの荷物を美月以外は担いだ。美月の分は坊坂が取り上げた。普段ならこの手の力仕事は藤沢が率先してするのだが、今回違ったのは、藤沢は美月を負ぶって行く係に任命されたからだった。美月は全力で断ったが。
建物までは、石段を上がる。いわゆる参道ではなく、裏方の人間が使う作業用の道なのだが、かなりの年月を経ているということが一目で分かる、苔むし、杉の枯葉が積み上がった石段である。『病弱』な美月への気遣いとは別に、風情ある石段を愉しむように、一同はゆっくりと上っていった。
学生は夏休みの時期である。美月たちが在学している座生学院高等学校の生徒たちは、その大半の実家が仏寺で、夏期は各種法事に忙しいため、貴重な人手として家に帰っている。人手云々ではなくても、一ヶ月以上に及ぶ長期休暇を、山奥の、男ばかりの学院の寮で過ごす選択をする生徒はまれである。その中で、事情は様々だが、家に戻ることを躊躇する生徒たちがいた。一年生で言えば、坊坂慈蓮と藤沢賢一郎、そして須賀光生こと、美月である。坊坂は、さすがに宗派の跡取り候補という立場上、八月には帰ってくるようにと厳命されていたが、帰ればまたいろいろ煩い親族たちが待っているのが分かっていたので、ぎりぎりまで遠方にいようという腹積りであり、藤沢には藤沢なりの事情があるようだった。
美月はというと、自宅に戻ることは出来るし、弟妹たちや母に会いたいという気はあるのだが、夏休みで一日中時間のある弟妹たちに、通っていることになっている某女子校での学校生活のあれこれを、子供らしい無邪気さで、起きてから寝るまで問い詰められることは分かりきっていたので、出来れば帰省は短期間にしたかった。
そんな折、終業式直後に帰省することを決めている同じ組の友人、八重樫から、八重樫が育った寺が人手不足なので、手伝いを兼ねて泊まりに来ないか、という提案があった。バイト料は出ない…というか学院はバイト禁止なので、貰うわけにもいかないが…代わりに、交通費は出すし、滞在費は無料。おまけに静かで何も無いところだから、課題をこなすには最適の環境、と聞いて、坊坂と藤沢は飛びついた。美月は迷った末、『母』となっているひとに電話を掛けた。実際には母親でもなんでもなく、美月を学院に送り込んだ陣内と名乗る老人の部下か何かで、美月は電話越しの声以外は何も知らず、顔すら見たこともない。元々送り込まれた理由が坊坂の監視なので、坊坂と一緒だというと、必死の口調で付いて行くように説得された。本来、長期休暇の間の監視は、仕事に含まれていないのだが、美月の弟妹を、保護者の付き添い不要の野外学習と、某遊園地に連れて行く、という条件で仕事になった。帰省中は、自分への質問は一切受け付けず、弟妹は、絶対に手を付けていない宿題で一日中勉強漬けにする、と心に決めて、美月も八重樫の提案に乗った。そうして表向き男子高校生四人、実際の所うち一人は男装女子、の一行は、ここまで赴いたのだった。
「よく来てくれました」
そう言って微笑んだ八重樫の母、八重樫匡子は、五十前くらいで、引っ詰めた髪に白の作務衣を着た、痩身の女性だった。美月はある事情から八重樫が母親に書いたとされる手紙の内容を知っていたので、どんなひとなのかと内心、好奇心でいっぱいだったのだが、ごく普通の中年女性だったので、拍子抜けした。同時にやはりあの手紙は、母親宛ではなかったのではないかと疑った。どうみても蛍光ペンとハートマークでデコレーションした手紙を送る相手には見えない。手紙の現物を見、手紙に書かれた個人名も見ている坊坂は、その名が八重樫の母と同名なのかも分かっている筈だが、この状況下では尋ねられなかった。
「助かりました。年々、お手伝いに来てくれるひとが減ってしまっていて…それに今年は、近くに子供向けのキャンプ場が出来て、長く来てくれていた方々もそちらに行ってしまって…一人もいなかったんです。わたしと郁美の二人でなんとか出来るか心配だったんですけど、ありがとうございます」
深々と頭を下げられ、慌てて美月たちは下げ返した。美月は匡子の、下げた頭の頭頂部が、すっかり白くなっているのに気付いた。美月の実母はまだ三十代なので、比較すると随分老けて見える。
美月たちが滞在することになるのは、庫裡に近い八畳間である。匡子が用意してくれていた、寺男用のかなり古く、ところどころ繕ってある濃紺の作務衣が置いてあった。美月が女性と知っている八重樫は、須賀は少し休んでからでも、などと言って着替えをずらそうとしてくれていたが、美月はここ数ヶ月の男子校での寮生活で身に着けた早着替えの技を披露して、他三人の目がない一瞬で、下を穿き替えた。上はTシャツの上から羽織るので問題は無い。荷物を置き、着替えも済ませると、早速八重樫が音頭をとって、寺の各所の案内と、手伝いの内容について説明し始めた。
手伝いの大半は掃除である。普段は来客などほとんどない寺だが、盆の前後はそうはいかない。先程上って来た裏方用の石段も、仕出し屋などが使うため、苔はとにかく枯葉は片して、不慮の転倒事故を避けるようにしなければならない。本堂の内部は流石に僧侶がやるらしいが、それ以外の敷地内全てを、檀家を迎えられる状態にするわけである。一通り、案内と説明が済むと、取り敢えず上から、という事ではたきを手にした一同が、本堂を一巡している回廊から、ほこりをふるい落とし始めた。
「八重樫、さ」
頭にタオルをいわゆる土方巻きにして、口元もタオルで覆ってでの作業である。くぐもった声で、美月は話しかけた。むろん、ほこりを払う手は止めていない。
「なに?」
「働いていたひとたちが減ったって何か理由あるの?キャンプ場以外に」
「ん?」
「いや、お盆ってお寺にとって凄く大切な行事だと思うんだ。その準備をする人手が集まらなくて、ええと寺女?って言葉があるのかしらないけど、八重樫のお母さんって、そういう立場のひとでしょう。現場のひとで責任者じゃ無い。なのに、その息子の友人たちに収集掛けないといけないって、実は大変なことなんじゃない?」
八重樫はにやりと笑った。口元は隠れて見えないが、目が細まったのでそうと分かった。
「正解。坊坂にはいずれ聞かれると思ったけど、須賀からその質問が来るとは思わなかった」
美月の経験からすると、大体こういう行事に狩り出される臨時の人手は、普段は主婦である。賃金より、近所付き合いというか、共同体の暗黙の了解で手を貸すものだ。それが、このような田舎の、おそらくは檀家の寺の手伝いに来なくなるというのは常軌を逸しているというか、異常に感じたのだった。
「今年壊滅的になったのは、キャンプ場が原因だけどね」
八重樫はわざわざ自分から言い出す気はなかったようだが、隠す気もなかったらしく。簡単に事情を説明してくれた。
「二年、三年前になるかなあ、住職が倒れられてね。今も入退院を繰り返している。で、今事実上仕切っているのは副住職。この方が、まあ、僧侶としてはとにかく、とかく庫裡のことに口出してくるっていうか、手伝いに来てるのか喋りに来てるのか分からんとか、なんでこんな連中に金払わないといけないんだとか、いろいろ面と向かって言うひとなんだよ。行事のお手伝いに来てくれているのは、お金云々より信心とか、お布施のつもりの方がほとんどだったから、そんなこと言われてまで来る意味がないよね。歳のいってる方が多かったから、通院とか、介護とか、孫の面倒を見るとかの理由でお断りされるようになった。それ以外で、他に働き口がないから週一とかで働いてくれていたひとたちも、今年キャンプ場がオープンして雇用が生まれたから、そっちに行った」
明快だった。美月は納得した。
「それだと、今夏は乗切っても、あとどうするんだ?彼岸だってあるだろう?」
坊坂は更に先のことまで考えが及んだらしい。尋ねられた八重樫は肩をすくめた。
「知らない。どうするんだろうね。大体今回のことだって、母さんはさんざん副住職に言ったんだけどね。地元では無理だから、他所で募集するか、他の同宗派の寺から人を回してくれって。でも何もしてくれない。出来ないのかもね。総本山に掛け合えば、修行僧を手伝いに送るくらいしてくれると思うんだけど、それやったら自分の人望のなさというか人を使う才覚のなさを認めるわけだし」
八重樫は溜め息を吐いた。
「母さんも、さ。別にこの寺にこだわる理由もないんだよね。今までは俺を育てなきゃならなかったけど、もう高校卒業出来るくらいの貯金はあるんだし、学院内にいる限り、衣食住そろってるんだから生活も問題ないし。好きにしていいんだけどね」
寺の事情を説明するときは割と軽妙な口調だった八重樫だが、そう話したときは珍しく真面目な様子だった。
本堂周りだけでも、思いのほか大量に、埃とどこからか入り込んだ砂が溜まっていた。はたきでふるい落としたあとは、固く絞った雑巾で水拭きをする。上からだんだん下に掃除する場所を移して行って、最後に廊下を磨き上げた頃には、夕方になっていた。少し夕食には早い時間だったのだが、初日ということで早めに切り上げることを八重樫が宣言する。夕食の準備が整うまで少しあるから楽にしていて、と言われた一同は謀ったようにコンビニに向かうことを提案した。西の空は茜に染まり出していたが、中天はまだ青い。だが山の中で背の高い樹々も多い寺周辺は既に暗く感じられた。用心のために、足元を照らす懐中電灯を手に、来た時に上って来たのとは別の、参道にあたる石段を下りて行く。駐車場につながる道ほどではなかったが、こちらも枯葉が溜まっていた。
なにせキャンプ場入り口を案内する看板を設置しているくらいなので、キャンプ場に来る客目当てに造ったと思われたコンビニだったが、八重樫によると逆で、コンビニの方が先に国道を走るトラック運転手向けで建てられて、コンビニの経営もしている一帯の地主さんが、キャンプ場を誘致して、そこから国道に出る道をコンビニのすぐ脇に造った、ということだった。コンビニには虫除けスプレーや蚊取り線香、電池やライター、雨具などが目立つところに並べられていて、その中に、花火があった。入店した途端、目に入って来たのだが、同時に藤沢がとってこいをされた犬のように、そこに向かって突進して行った。幸い周囲に客はいなかったが、レジの向こう側からその様子を目撃した女性店員が、若干引いていた。
「買うの?」
「ねずみとロケット、あと蛇と、置いてぶわあって火が上がるタイプはだめ。それ以外ならいいよ」
美月の問い掛けと、八重樫の注意喚起はほぼ同時だった。藤沢は、後で水泳用具入れになりそうな丈夫なビニールパックに大入りのものを取り上げたが、坊坂にたしなめられた。美月は夏限定フレーバーのカップアイスを全種類試す誘惑に駆られたが、なんとか打ち勝つと、悩み抜いて一種類だけ選んだ。八重樫は顔見知りだったらしい女性店員と親しげに喋っていた。花火だけは四人で割って、それ以外はそれぞれで支払いを済ませ、店外に出ると、もう完全に黄昏だった。薄闇の中、時折駆け抜けるトラックが、熱風を吹き付けて行く。急かされたわけではないが、足早に国道を過ぎ、寺への参道に入る。石段か、陰を作る緑のせいか、一気に体感温度が下がった。
大量の握り飯がのった皿。鍋一杯のみそ汁と煮物。器一杯の漬け物、酢の物、縄で縛れそうなほど硬い木綿豆腐。かごに無造作に入れられた、まだ洗ってもいない丸ごとの茄子。はらわたをとって塩もみした川魚が二十尾ほど入ったクーラーボックス。コンビニから戻ると、庫裡に呼ばれた美月たちの手によって、それら大量の食料が滞在予定の部屋の縁側に移動された。八重樫はどこからか大きな七輪と炭を出して来た。夕食は、ここで焼く焼き魚と焼き茄子が主菜である。たった四人とはいえ、食べ盛りの高校生が増えて、食事の支度に手間を取らせるのではないかと、少し気に掛かっていた美月だったので、このセルフ方式に気が軽くなった。
「あと、西瓜も冷やしてあるから、切って食べてね」
匡子はそういうと、大振りの包丁とまな板を、ちゃぶ台に置いて庫裡に戻って行った。まだ、副住職やその他の僧侶のための支度があるらしかった。西瓜は、寺の裏にある、山の湧き水を受けて流している、かなり深い手水鉢の中で、丸ごと一玉冷やされていた。茄子も西瓜も近所の農家からの貰い物だそうで、朝収穫したばかりのものだった。
昼食が新幹線の中での駅弁で、味はとにかく量に大変不満があった男子高校生三人は、その分を補うかのごとく、勢い良く食らい付き、どう考えてもおかしいと思うような短時間で、全てを食い尽くしていた。もはや見慣れている美月は、手早く自分の分を確保すると、淡々と、誰にも渡さずに食べ切った。美月がまだ食事を終えない内に、八重樫の手により西瓜が四つに切り分けられ、これまたもの凄い速さで四分の三の西瓜が消費された。美月が西瓜に取りかかろうとした時には、藤沢がさっと済んだ食器を下げ、西瓜を冷やしているのと同じ湧き水が出る外水道に持って行った。花火は洗い物を済ませてから、と言われたらしい。
西瓜ののっているまな板と包丁以外の洗い物が済むと、赤字で堂々と消火用、と書かれている金属製のバケツに水が汲み入れられ、一本目の花火に火が点けられた。火薬の強い匂いと煙が上がり、独特の火を吹く音が響く。結局一玉の四分の一の西瓜は食べきれないと判断した美月は、それを幾つかに切り分けて、真ん中の、一番果肉が多い一片のみしっかり食べた。残りは、五月蝿いと怒鳴り込まれない程度に騒ぎながら、赤や緑や黄色の炎を楽しんでいる間になくなっていた。
まな板と包丁、西瓜の皮と花火の燃え残りを片付け、これまた久し振りの湯船に浸かって、部屋に戻った途端、美月は強烈な睡魔に襲われた。坊坂と藤沢も似たような状態である。匡子を手伝いに行っていた八重樫が戻って来たところで、四人分の布団を敷く。基本、八重樫親子は庫裡の横の部屋を使っているらしいが、今回に限り、八重樫もこの八畳間で就寝することになっていた。
「あ」
そこで美月はあることに気付き、つい声を上げた。
「なに?」
「うん、結局、今日、一度も勉強してないな、って」
『言うなよ…』
三人同時に言われてしまった。
「ご、ごめん」
我ながら空気が読めない発言だったと美月は猛省した。