#28
自動車の走行音とブレーキ音が耳に届いて、寧礼は酒気の残る頭を抱えつつ、元は応接室だった部屋のカーテンの隙間から外をうかがった。四台の自動車が、真新しいタイヤ痕と共に工場の敷地内に停車している。私有地なので、入り込むだけでも犯罪になる筈だが、降りて来た連中は気にしていない様子だった。
寧礼は、降車してくる面子を見るより先に、車種とナンバープレートで、誰が来たのか分かってしまっていた。傾いた夕日の、赤く染まった光の下、長兄の唇を引き結んだ顔が見え、その他に捜索や探査を専門とする人員、死霊を浄化する人員、土浦弁護士が刺されたためだろう、腕っ節に自身がある若い連中が確認出来た。そして意外なことに、甥二人と、顔を知らない甥たちと同年代と思われる少年三人がいた。だが、その少年たちが何者なのか考え込むより先、最後に車を降りて来た実妹の姿を見とめて、寧礼の顔はこわばった。志保が来ている意味はひとつだった。自分が関わっていることを知られている。英慎たちだけならば、攫われたのが英凌と関係ある者なので出張って来たというだけだが、その場合、結界術が専門の志保は招集されないだろう。寧礼は振り返ると、床を見た。床の上、体を丸めて横たわり、固く目を瞑っている漆嘉遍がいた。誘拐の実行犯たちは、一味が四人で、一人を現場に残して来たこと、捕縛されているであろうことを、寧礼に話していなかった。己らの失態など報告せず、予定より獲物を一人多く捕らえた成果だけを論い、報酬の増額を求めていたのだった。そのため寧礼は、逮捕された一人から足が付いたことなど想像が付かず、この『ひとならぬもの』が何か情報を漏らしたのかと思ったのだった。
寧礼は昨日、この応接室で、美月を八重樫と思い込み連れて来た実行犯たちと、怒鳴りあいになった。普段であれば、どう見てもまともな方法で生計を立てているとは思えない連中相手に、食って掛かることなど有り得ないのだが、そのときの寧礼はどうかしていた。金を返す返さないで一悶着有り、ふっと危険な空気が実行犯たちの間に流れた時、ちょうど漆嘉遍が応接室に覚束ない足取りで入ってくると、そのまま床にうずくまり、横になってしまった。美月が、感応・共感能力で同調した漆嘉遍は、意識を引っ掻き回されたような感覚を覚え、それが美月によるものと気付かず内部で原因を探っているうちに、いわばエネルギー切れを起こして倒れてしまったのだが、寧礼に分かる筈も無かった。漆嘉遍の登場で、応接室の中の緊張がわずかに緩んだ次の瞬間、実行犯たちは思い思いの悲鳴を上げた。漆嘉遍によって存在を隠されていた黒い異形たちが、実行犯たちの目にも映るようになってしまっていた。突然部屋の中に現れたその黒い物体に実行犯たちが取り乱す中、ふと、寧礼は漆嘉遍の言葉を、『ひとならぬもの』を使う力がある、という言葉を思い出し、それらに命令してみた。
黒いものたちはあっさりと命令を聞いた。
応接室にはあらかじめ決められたものしか出入り出来ないように結界が張られていたので、一般人に死体が見つかる可能性は無かったのだが、応接室に置いておきたくなかった。寧礼は、死体を台車に乗せ、もう一箇所結界を張っている、美月たちの監禁場所に移動させるよう黒いものたちに命じたが、これは聞き入れられなかった。寧礼の命令に全て従う、というわけではないらしかった。台車の移動を断られた寧礼は、仕方なく自分で死体を移動させる羽目になり、しばらく気分が悪くなった。
結界で閉じられているとはいえ、その日の夕方、警察の捜索班が廃工場に来たときは肝を冷やした。警察はそこに部屋や窓や扉があることすら気付かないが、寧礼には普通に窓から捜査員たちが見えるのである。そのときは冷たい汗をかき続けていたが、警察が何の成果も上げられずに退散するのを見、一息吐くと、今度は逆に気分が高揚して来た。間抜けな連中に打ち勝ったと思い、祝杯をあげて寝入ってしまい、気が付いたら朝だった。漆嘉遍はまだ同じ体勢を保ったまま、びくとも動かず、黒い異形たちは所在無さげにうろうろしていた。寧礼は二日酔いでしばらく寝転がっていた。そして時間が進み、今、兄たちが来ている。
やや頭痛の残っていた頭だが、興奮のためか、痛みを放棄した。応接室の中の六体の黒い異形のものたちを見る。笑みが漏れた。自分が関わったことを知られたのは残念だが、兄たちに目に物見せることが出来る、寧礼はそう思った。
車から降りた志保は空を見上げた。夕暮れ刻だが、天気の変わり目が近づいているのか、中天まで赤く輝き、薄く、空を撫ぜたような雲が、黒く染まっていた。志保はその色合いに不吉なものを感じたが、軽く頭を振って、その予感を振り払った。
「大丈夫?酔った?」
声を掛けて来たのは、志保以外の紅一点である、浮遊霊や地縛霊など、余り強大ではない死霊の浄化を専門に行っている千滝宗の一員だった。出家はしていないが、数十年の実績がある。志保は大丈夫、と簡潔に返事をした。ここまでの道路が良い舗装では無かったのは確かだが、乗り物酔いをしたわけではない。そして少々気分が悪くても、脱落するわけにはいかなかった。寧礼が暴走しているのなら、止めるのは自分しかいないのである。
志保は顔を上げ、廃工場を見据えた。結界…それも自分が使うのと同じ系列の術…が結ばれているのが分かった。英慎に向き直ると、深くうなずいた。
「間違いありません。寧礼の術です」
志保の言葉に、英慎はうなずき、他の千滝宗の面々は気まずそうだったり、驚きであったり、それぞれの表情を示した。寧礼が関わっていることに半信半疑、或いはただ信じたくない、という気持ちの者が大半だったのだ。だが、今、志保が断言したことで全てが否定された。
成り行きを見ていた坊坂と八重樫、藤沢は共に無表情だった。顔も知らない倉瀬の叔父のことなど、実際どうでも良かったのだ。
「では、入る」
英慎が宣言すると、記録係として同行している男が、デジタルビデオを回し始めた。藤沢並に体格の良い、坊主頭の二十代の男二人が、廃工場の出入り口に立った。工場が閉鎖された後、錆の浮いた鎖と南京錠で閉じられていた扉だが、昨日、警察の捜索の際に開錠されて、そのままになっていた。そのため一行は器物破損を行う必要は無かった。
「勝手な行動は…」
「しない」
倉瀬の、特に八重樫に向けての再三の注意がここでも行われた。八重樫は淡々と返答した。坊坂と、英凌の二の腕を掴んでいる藤沢もうなずく。自分と英凌とで三者の勝手な行動を止める、と言って父親を説得した倉瀬だが、実際は英凌を藤沢に見ていてもらう、という状況になっていた。志保の後を、倉瀬、八重樫、英凌と藤沢、坊坂の順で続き、工場内に入る。坊坂の後に、数人の千滝宗の人員が続いた。
工場の中は、埃っぽく、金属の臭いがした。天井は高く、普通の建物で言えば三階くらいの高さがある。窓は大きく取られていて、硝子が砂埃でくすんでいるものの、屋外から十分な光を取り込んでいた。元は天井からも機械が設置されていたのか、金属の棒とワイヤーロープが残っている。床は、元は青緑に塗られ、黄色の表示テープが貼られていたようだが、今はほとんど剥き出しのコンクリートになっている。灰褐色のビニールシートを被され、放置されている機械が数台と、段ボール、金属網コンテナなどが無造作に置かれているだけだった。入って来た出入り口以外に、車両が直接入り込める大きさの出入り口が一つと、別に扉が幾つかあり、事務所、応接室、工場長室、化粧室、などの表示が取り付けてある。
「二箇所、結ばれています」
緩慢に見える動作で工場内を一周眺めた志保が言った。その目が、事務所と応接室のある方に向けられ、次の瞬間、叫んだ。
「閉じ込められました!兄さんです!」




