#26
美月は、切り立った険しい岩山の、その頂上に立ち、眼下の景色を眺め下ろしていた。一面が橙とも茶ともつかない色に染められていて、鉱物以外の物質らしきものが見えない。地面が果たしてどこなのか、想像もつかないほどの高さであるが、不思議と恐怖は感じなかった。実際に美月が経験していることではない、他の誰かが経験していること、もしくは経験したことなのだと、何となく理解出来ていた。夢の中で、これが夢だと自覚しているようなものだろうか。失うことを恐れて闇雲に意識を拡散した結果、誰かに同調してしまったのだと、推察出来た。
岩山の頂に立つ漆嘉遍は、二足歩行のひとに近い姿を取り、白い旅装束を身に着けていた。片手に、柄が桃の木で、先端に銀製の環が付いた短い錫を握っている。左右には同じ姿形の仲間たちが六体、横一列に一糸乱れること無く並んでいた。後方には金糸銀糸で縫い取られた絢爛豪華な衣装を纏ったひとの姿をしたものたちが、白木の輿を担いでいる。輿からは色とりどりの紐が何本も垂れ下がり、遥か後ろにまで引きずられていた。輿の上には一頭の驢馬が鎮座していた。漆嘉遍と仲間六体はだいぶゆっくりと進んでいるのだが、輿の動きがそれ以上に鈍いため、少し進んでは追いつくのを待つという事を何度も繰り替せざるを得ず、なかなか前に進んでいなかった。
…早く参りましょう。
そう伝えるが、驢馬はどこ吹く風といった体で、頭部を上げ、周囲の土と泥を見、砂を含んだ風を味わっていた。時間が押していることを漆嘉遍がことさら強調しようとした時に、それは起こった。夕焼けが全体に広がっているような色合いの天に、十字の亀裂が入ったかと思うと、その中心を押し開けるようにして、天が開かれた。と、そこから二輪の人力車に似た、虹色に輝く車が、音も無く数台現れ出て来る。この距離からはっきりとその形状が見えるので、実際には相当な大きさだが、大小を感じさせない軽やかな動きで、くるくると経巡った。
…『希望』ですね。
漆嘉遍の傍らの、仲間の一体がつぶやいた。
…中止、中止、中止です。
優雅な外見とは裏腹に、街宣車の叫びのような耳障りの良くない音声が、車から発せられ、一帯に響いた。音声の質ではなく、伝えられた内容に漆嘉遍が絶句していると、驢馬が一つあくびをした。
…だ、そうです。戻りましょう。
驢馬はそう言うと、漆黒の澄んだ瞳を漆嘉遍たちに向けて来た。漆嘉遍は無言のまま、少しずつ、進む歩みを右にずらし、ゆっくりと弧を描いて方向転換して行った。漆嘉遍が描く弧線に沿って、輿がその後に続く。完全に元来た方角に転換を終えてからしばらくして、突然目の前の地面が隆起した。盛り上がった土が崩れ、赤い、ひとの手首ほどの幅で、指ほどの厚みの触手が姿を見せた。
…『穢れ』。
仲間の一体がもらしたつぶやきに漆嘉遍はうなずくと、錫杖を振り上げ、挑み掛かって来た触手、『穢れ』を払った。払われた触手が塵となって消えて行くが、その後から後から触手は湧いて出てくる。漆嘉遍の手首を一本の穢れが掴んだ。仲間の一体が、その触手を錫杖で叩き潰す。全て潰し終えるまで、しばしの時を要した。潰し終えたときには、漆嘉遍の手首は掴まれた痕跡をくっきりと残しており、他の仲間たちも同様に、赤黒い蚯蚓腫れを方々に作っていた。
ぜんまい仕掛けの小鳥たちがさえずりを聞かせている中、漆嘉遍は透明で平坦な道を進んでいた。相変わらず横には仲間たちがいて、後ろには多数の様々なものたちが侍り、その更に後ろに輿が進んでいた。道の下には大樹の根が張りつめているのが透けて見える。遠くには、様々な淡い色彩の雲がとろりと空を覆っている。見慣れている筈のその雲が、そのときは酷く心騒がせるようだった。小鳥が一斉に歌うのを止めた。爽やかだった空気に、突如生暖かさが混ざり、肌を撫でた。懇願と思われる感情を含んだ声が上空に響き、次いで金属が無理に歪めさせられる音がした。漆嘉遍を含め、周囲にいたものたちが一斉に見上げた。と、一応それなりの重量はある筈だが、全く墜落音をさせずに、足首から先を切断された、ひとの形を模して作られた傀儡が、何体も落ちて来た。漆嘉遍はそれの動きを目で追って、視界の端に何か不自然なものを感じ取り、辺りを見回し、自身の足元を見下ろして、喫驚した。透明な道の下、今まで根しか無かった場所に、こちらに向かって口を限界まで開いた大きな犬がいた。その開いた口だけで、漆嘉遍や仲間たちより大きかった。目が合うと、にやりと笑った。
漆嘉遍は驚きから覚めると同時に、その犬に向かって、ありったけの力を撃ち込んだ。犬は簡単に霧散したが、霧散した欠片は蒸気が上がるように、透明な道を素通りして、漆嘉遍と仲間たちを包み込んだ。
一体は涙を流しているようだった。ただ、それが目であったのかは分からない。その姿は生き物というより、黒と白が混じりあった塊で、地に横たわったまま眺める漆嘉遍は、それがすぐに仲間たちだとは理解出来なかった。仲間たちと思しき塊たちは、鳥獣のような何者かに、上部や下部や、突起などを掴まれていて、何者かの移動につられてどこかへ移動して行く。
…あれらは、どこへ行く?
漆嘉遍の疑問に誰かは、姿は見えずに脳裏に響く声だけで、答えた。
…元へ。
それ以外に何があるのだ、と、答えをくれる誰かは、不思議そうで、妙に豊かな感情が籠っていた。
…自分はどうなるのだ?
…どうにも。まだ元には行かぬ。
…あれらとは、また、会えるのか?
…会える筈、なかろう。
そう答えを得た瞬間、漆嘉遍は走り出した。
どこからか黄金色の石が飛来して来た。足元に落ち、こつん、と小さな音を立てる。石が飛んで来た方向を見やる。と、いくつもの色とりどりの石が飛んで来た。光に反射して、きらきらと光り輝く。一体の仲間に命中し、石はそのままその体内に沈み込んで行った。黒い塊の仲間は、その身を捩らせ、叫び声のような空気の摩擦音を上げた。逃げろ、という漆嘉遍の意は、きちんと仲間たちに伝わった。一斉に、石が飛び来る方向と逆に、移動し始め、漆嘉遍も続いた。
どれほど移動したのか、眼前に手をつないだ、白布に藁を入れて作られた顔を持つ、ひとの子供に似たものたちが現れた。素材は半透明だったり金属的な光沢を持っていたりするが、童装束で、手をつないで立つ数人が何組もいる。仲間たちは行く手を遮られて右往左往している。と、子供たちは突然、発声器官があるようには見えないのに、子供特有の甲高い声で歌い始めた。歌詞の内容は知れず、内容があるのかすら分からない。歌声に誘われるように風が吹いた。漆嘉遍たちの後ろから来た暴風が、横を吹き抜けて行く。暴風は子供たちを見事に避け、更にその先に向かって行った。風が通り抜けのに続いて、熱が感じられた。振り返ると、後方遠く、酷く明るく、大火が上がっていた。少しずつ前進し、こちらに向かって燃え広がって来ている。再び暴風が傍らを吹き抜けた。進めるのは、子供たちのいる方しか無い。漆嘉遍は手をつなぐ一組に近づくと、子供の一人の首を手刀で薙いだ。こてん、と首が落ち、次の瞬間、透明な鮮血が吹き出した。歌が止んだ。漆嘉遍の行動を見ていた仲間の一体が、がぶりと別の子供の頭部に食らいついた。漆嘉遍はその様子が可笑しくて、げらげらと笑い出した。
不意に漆嘉遍は笑いを治めると、顔を上げた。
…誰だ。
美月は、はっとして、前を見た。美月は周囲に無数の子供たちのいる只中に突っ立っていた。正面に立ち、美月を見据えている男の顔が、現実世界で美月を投げ飛ばしたあの『ひとならぬもの』と同じだと気が付いた。同調していた相手はこいつで、今、気付かれたのだと自覚した。と、がりがり、という音が足元から聞こえて来て、美月は下を向いた。足の爪先と踵が、見えない鑢でもあるかのように、削り取られ始めていた。美月は悲鳴を上げた。




