#25
どれくらい沈黙のうちに過ごしていたのか、突然部屋全体に響いた、きい、という音に、美月と匡子は、はっと顔を上げ、音の発生源である扉を見やった。アルミ製の扉が開き、二人の男が現れた。二人とも三十は越していないと思われる若さで、茶色の髪をしていたが、片方の顔に美月は見覚えがあった。ビジネスホテルの駐車場に佇んでいた奴だった。どうも人間ではないらしいが、正直なところ美月には差異が分からなかった。
「何故二人いるのですか?」
美月が見知っている男、漆嘉遍が、微かに眉をひそめて、傍らの男、寧礼に尋ねた。
「そのガキは翠康のガキだ」
「違います!」
寧礼の言葉に、思わず叫んで否定した匡子を、漆嘉遍と寧礼、美月が一斉に見た。
「はあ?あんたが生んだ、翠康の子じゃないのか?」
寧礼が怪訝そうな様子で問い掛けた。匡子は嘆息しつつ、心底不快そうに顔を歪めた。
「だから、何で皆そう考えるの…。若い頃、あれだけ遊んでいた頃の実子がひとりもいないっていうのに、還暦過ぎてから持てると思うの…」
後半は独り言になっていた。
「…このガキは?」
「この子は、そもそも、わたしの子供でもない、全く無関係な他所様の子です。返してあげて。あなた方が何を考えているのか知らないけれど、必要だったのはわたしだけなのでしょう?」
「じゃあ、あいつら、なんだ、人違いでガキ連れて来て、余計に金をせびったのか!?」
匡子の哀訴は、聞き入れられるどころか、最後まで聞かれることすらなかった。言葉半ばに寧礼は怒りとともに部屋から飛び出して行った。漆嘉遍は呆れた表情でその後ろ姿を見送った。
「あれも、困ったものだ」独り言ちると、匡子に向き直った。「子供云々はとにかく、あなたが翠康を看取ったことは間違いないのですね」
「はい、ええ、それは、確かです。それより、この子を…」
「昂美童子、ご存知ですね。あれは今、どこにいますか?」
言葉を遮られた匡子は、口を閉ざすと、唖然とした表情で、穴のあくほど漆嘉遍を見つめた。
「…昂美童子、って翠康が従えていたという鬼ですよね。それが、どうかしたのですか?」
落ちた沈黙に耐えきれなかった美月が、つい口を挟んでしまった。漆嘉遍は腹を立てた様子は無いが、無関心そうに美月を見やった。
「鬼、ね。人間はすぐにそう言う。われわれの様な存在は、全て、鬼だ、悪鬼だと」
「…どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。すぐに鬼だと言い、石持て追う。人間は皆、そうだ」
吐き捨てるように言った。
「…わたしが言う『鬼』は、もともとは人間、特に霊能力者で、それが特殊な術とか多大な怨みとかそういったものの影響で変化して、ひとを襲うようになったもの、という意味です。あなたが、そうではないらしいということは分かります」
美月も、『ひとならぬもの』については、学院の授業と他の生徒の話しから得る情報でしか知らないし、鬼と相対したことももちろん無かった。ただ眼前の男はその得ている情報とは一致しないし、美月なりの直感で、違う存在であることは何となく察しが付いていた。
「その意味では、わたしは鬼ではありませんね。それから昂美童子も違いますよ。あれは『知識』ですから」
「は?」
美月は意味が分からず当惑した声を上げた。
「『知識』です。色々なことを、ただ、知る、そして伝える。そういう存在…の一部、欠片です。昂美童子、というのは人間が付けた勝手な呼び名ですし、伝えられている女鬼のごとき姿もそうだ。本当に見た者などいたのかどうかさえ疑わしい。言ったでしょう、何でもかんでも人間は鬼にしてしまうと。それに先程、翠康が従えたと言いましたが、従えてなどいませんよ。たとえ欠片であっても人間ごときが従えることなど不可能です。ただ、翠康が『知識』を乞い、応じていた、それだけでしょう。人間と違い出し惜しみなどしませんから、乞えば、与えたでしょう」
美月は沈黙のまま、漆嘉遍の滑らかに動く口元を眺めていた。
「人間は知識を欲しがるし、独り占めを好む。翠康が『ひとならぬもの』の調伏であれ程に名を馳せたのも『知識』がいたからです。『ひとならぬもの』の弱点を知り尽くしている存在がいるのですから、これほどの利はないでしょう。そして十数年に渡り独占した」
漆嘉遍は言葉を切ると、ひとつ息を吐いた。視線がどこか別の場所を漂った。
「でも、もう翠康はいない。そして、わたしには、われわれには『知識』が必要なのです。欠片であっても」
再び匡子に向き直ると、漆嘉遍は口調を厳しいものに変えた。
「昂美童子は、どこにいますか。知っていることを、教えなさい」
「…そう言われましても、翠康様と昂美童子は、三十年ほど前に、決別しているのです」
既に気を取り直し、無表情に漆嘉遍の一挙手一投足を見つめていた匡子は、淡々と言葉を紡いだ。
「決別?消えたのではなく?」
「消えた?」
不思議そうに聞き返され、漆嘉遍はやや苛立った様子で付け加えた。
「消滅、人間で言うところの死亡、です」
匡子は首を傾げた。
「それは、さあ?ただ決別、袂を分かった、と。意見の相違というか、方向性の違いというか、喧嘩別れというか、そういうことであって、死亡とは違うと思いますが」
「昂美童子が見限ったと?」
「どちらがどう思ったかなど、他者の知るところではありません」
「ならばなぜ、籠蔦事件での翠康は、女鬼の魅了に堕ちなかった?昂美童子が手を貸していないのであれば、何故?別の女怪と手を組んだとでも?」
「あの…そういうことは、わたしに訊かれても困ります」
漆嘉遍は、やおら大股で匡子に近づくと、その襟首を掴んだ。
「一体、何なら知っているのか!?」
匡子の上半身が床から持ち上がった。横で一連のやり取りを聞いていた美月は、匡子を掴んだ漆嘉遍の腕を掴み返して捻り上げ、襟首を解放した。匡子は床に落ちると首を押さえて二三度むせた。美月はすぐに漆嘉遍の腕を離し、一歩下がって距離を取ったが、漆嘉遍は捻られた腕を一旦押さえ、もの凄い形相で美月を睨みつけたかと思うと、一瞬で美月の眼前に立ち、片手で右腕を、片手で首を掴んだ。美月は対応する暇もなく、そのまま部屋の隅に向けて投げ飛ばされ、積み上げられていたOA機器だった残骸の中に盛大に突っ込んだ。背を打ち、息が詰まり、手と言わず足と言わず全身に痛みが走る。意識が遠のくのを感じ取って、美月は必死で踏み止まろうとした。溺れている者が浮上するための手掛かりを探るように、無我夢中で意識を開き、周囲の、何か意識を集中出来るものに縋り付いた。
何かと繋がったのは分かった。だが踏み止まるどころか、逆にそれに向かって意識が引きずり込まれるのが感じ取れた。美月は抵抗を試みたものの、無駄に終わった。




