#24
右の顔全体からこめかみ、頭、首と頭の付け根の辺り一帯に、びきびきと突き上げてくるような痛みと熱、そして冷たいものが触れる皮膚の感触を感じる中、美月は目を覚ました。砂埃と金属の混じったような臭いが鼻をくすぐる。目を開けるも、暗い。左のまぶたが動きにくくて半眼になっているがそれだけでなく、自分がいる場所に光がほとんどないのだと気付くのと同時、気を失う直前の一連の出来事が頭の中を走り抜けた。思わず起き上がり、直後、顔の左側を中心に走った激痛に、殴られた箇所を押さえて背を丸める。頬に当てられていた濡れたハンカチが膝に落ちた。
「気が付いたのね?」
声がするとともに、痛みのあまり硬く閉じているまぶた越しに、灯された明かりを感じとることが出来た。美月がゆっくりとまぶたを押し開けると、暗闇用に開いていた瞳孔が光に焼かれた。目が慣れるまでにしばし掛かったが、その内に匡子の顔が心配そうにのぞきこんでいるのが分かった。片手にランタン型の懐中電灯を掲げている。その明かりで照らされて、今いる場所がぼんやりと浮かび上がっていた。
元は事務所のようだった。全体的に埃っぽいのは、鼻と喉が教えてくれた。美月が横たわっていたのは、合成皮革が張られた数人掛けのソファで、所々にほころびや鉤裂きはあるものの、まだ充分使用に耐える代物で、他に事務机や内部の発条や緩衝剤が飛び出した事務椅子、空の鋼鉄製の書棚、部屋の隅にはOA機器だった白い合成樹脂製のあれこれが積み上げられている。別の隅には、水道はまだ来ているのか、水滴が滴り落ちている水道を伴った、小さな洗面台が設置されている。天井の蛍光灯は外されていて、窓と思われる壁の一角は、全て新聞紙と段ボールで塞がれていて、光が入って来ない上に、外の様子は一切窺い知れない。そして、美月と匡子が立てる音以外に、およそ聞こえてくる音が無かった。
「ほほは…」
ここはどこ、と言おうとして、美月は呂律が回っていないことを自覚した。殴られた際に切っていたらしく、口腔内が腫れ上がり、血の味がしている。舌で触ると、左の奥歯がぐらついているのが分かった。さすがに折れてしまった歯を再生することは出来ないので、美月は自身の左頬に意識を集中すると、まだ歯がつながっているうちに、一気に治癒を施した。他者相手だと効きが悪いというか思う通りにいかないことも多いが、自分の体であれば、割合手軽に出来る。数秒の後、美月の顔は腫れが引き、奥歯のぐらつきも治まっていた。軽く一息吐き、そこで、すぐ近くに、目を丸くした匡子の顔があることに気が付いた。懐中電灯の明かりの下で、治るまでの一連の変化がしっかりと目撃されていた。
「えっと…」
美月の能力をどれほど知っているのか判断が付かない上、そもそも息子の能力さえ把握しているのか分からない匡子を前に、美月は口籠った。慌てる美月の様子を気に掛けることもなく、匡子は手を伸ばすとそっと美月の左頬に触れ、指先でなぞった。今はもう暴力を受けた痕跡が消え去っていることを確認すると、胸をなで下ろしたようで、一息吐いた。
「良かった。女の子なのに、顔に傷が残ったらどうしようかと思って…」
今度は美月が目を丸くしてしまった。治癒能力の行使を見られたのとは別の理由で硬直してしまう。美月の驚愕に、匡子は自身の発言の意味に気付いたようで、安堵から一転、気まずそうな表情になった。
「あの…あの子を、郁美を責めないで。あの子は基本、わたしに隠し事が出来ないんです」
申し訳なさそうに言い訳する匡子を前に、美月はむしろ、八重樫が知っている以上、匡子も知っているのだと今まで考えなかったことが逆に不思議に思えて来た。あえて言えば、美月が息子たちと同室で休んでいることを受け入れている点が理由だろうか。その点、保護者としてどうなんだろうと美月は思ったが、言い出す気にはなれなかった。例え匡子に知られていても、学院の関係者でもないし、八重樫の不利に働くかもしれないことを言いふらすとも思えないので、それほど問題はないかと、美月は内心で結論付けた。八重樫に後で、他言無用と、念押ししてもらえば良い。
「ここは、どこなんでしょう?」
内心の考察が終了すると、美月は先程言い掛けた問いを匡子に投げた。匡子は床に直に座り込んだ体勢のまま、頭を振った。
「分かりません。わたしは車の中で…あなたが殴られて気を失った後、車に乗せられたんです…袋を被せられてしまったので、外が見えなかったんです。車が走っていたのは一時間くらいかしら。その後に連れ出されて、ここに閉じ込められました。あの男たちは、それっきりで。あと、この場所ですが、こうしている分には問題ないんですが、窓や扉に近づくと、なんだか部屋が歪んでしまって、くらくらします。それなので、部屋からは出られません。これはあの中にありました」
匡子はランタン型の懐中電灯を示し、防火・防災用品とペンキで書かれた金属製の大きな箱を指差した。美月はソファに腰掛け直すと、思考を巡らした。
「あの男どもが何者だとか、連れて来られてた理由とか、想像付きますか?」
美月の問い掛けに、匡子は再び頭を振った。そうだろう、と美月も思う。連中は八重樫と名指しし、里子と匡子の二人を見比べていたので、八重樫という名字の中年女性を拐かすよう依頼され、自分はおまけというか成り行きで連れて来られただけだと思うが、匡子に攫われるほどの理由があるとも思えなかった。
「しいて言えば、西野さんのところには恨まれていると思います。それ以外だと倉瀬さんのところですか。倉瀬さん…英凌さんが家を出てしまうと困るひとがいて、それを阻止するためにわたしを排除しようとした、とか」
匡子は自信なさげに言葉を継いだ。確かに西野家の者には恨まれているだろうが、それなら間違って里子が被害を受けかねない状況で誘拐を実行するとは思えないし、突然起こった怪奇現象の説明がつかない。だからといって倉瀬のところとなると、更に可能性としては低い。仮に英凌が実家を出ることを阻止したい誰かがいたとしても、拉致や誘拐という重罪を犯すことのない、賢明な遣り様はいくらでもある。訳が分からず、美月は、床に座り込みソファに肩を預けている匡子同様疲れた表情で、ソファの背にもたれかかった。




