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#20

とにかく、話しはまとまった。里子と岡本弁護士が化粧室に立ち、土浦弁護士が飲み物の代金を支払っている間、美月は藤沢のスマートフォンに電話を掛けた。特に話すこともないし、鳴らすだけでも何でもとにかく掛かったらこちらに来るとのことだったので、本当に掛けてすぐ切った。坊坂と藤沢も本当にすぐに来た。ラーメン屋ではなく、ビジネスホテルのすぐ外で待機していたのではないかと思える早さだったので、里子と岡本弁護士が化粧室から出て来るのとほぼ同時だった。新しくタクシーを呼ぶ必要のある美月たちと違い、自家用車で来たのかタクシーを待機させていたのか、里子と岡本弁護士は美月たちに向けて軽く会釈をすると、ビジネスホテルから出ようとした。何の気無しにその動きを目で追っていた美月は、ビジネスホテルの正面玄関、硝子戸の自動ドアの向う、正面駐車場の真ん中に、男が立っているのが目に入った。微笑みを浮かべ、薄い色の髪に白のシャツを着ていて、別に服装に問題はないが、中天に差し掛かった太陽の強い光線の中、何故あんなところに突っ立ているのだろう、と美月は疑問に思った。美月の様子に気付いた坊坂が、その視線を追い、硬直した。

「あいつ…」

昨日病院で、石顕(しゃっけん)の後ろに見たのと同じ男だった。

「知り合い?」

美月が能天気に尋ねたそのとき、自動ドアの硝子戸、ロビーラウンジの羽目殺しの掃き出し窓が一斉にきしむような大きな音を響かせた。かと思うと、続けて硝子が複数の手で連打されているように揺れ、どんどんどん、がんがんがん、と音を立てた。正に自動ドアの前に立っていた岡本弁護士が悲鳴を上げた。里子は声が出ず、ただ立ち(すく)んでいる。

「お、お客様、危ないっ」

白髪の男性フロント係が、取り乱してはいるものの声を掛けた。我に返った里子と岡本弁護士が後ずさりしてフロント台の正面辺りまで戻って来た。代わりに自動ドアに近づいたフロント係の目の前で、ひときわ大きな、硝子に亀裂が入ったかのような音がした。美月は唖然とひとりでに騒ぐ硝子を見ていたが、その隣で坊坂が立ち上がった。美月が見ていると、坊坂は無言で硝子を指差し、口の中で小さく何か唱えた。ぴたりと音が静まった。

「…地震?」

土浦弁護士がつぶやいた。

「今の、何が起こったのか分かっているのか」

藤沢の問い掛けに坊坂はうなずいた。

「少し待っていてくれるか。それかタクシーを裏口にまわしてもらってそちらから出るか。裏にはいないから」

坊坂は硝子越しに、(いま)だ日の下で(たたず)み、微笑んでいる男から目を離さずに言った。

「誰かいるんですか?」

土浦弁護士が坊坂の視線の先に目をやり、不思議そうに尋ねた。その時初めて美月はあの男の姿が土浦弁護士には見えていないことを知った。坊坂以上に険しい顔で外を見ていた八重樫が、何やら言いたげな表情で母親に向き直った。匡子はうなずくと、土浦弁護士に話しかけた。

「タクシーを裏口に着けてくれるように、電話して頂けませんか。裏から出ましょう」

「一台だけで。俺はちょっと、外を見て回って、後から戻りますので」

坊坂は付け加えると、視線は固定したままに、歩き出した。

「俺も行く」

「俺も、よく分からんが、何かあるのは分かる」

八重樫と藤沢が次々に立ち上がった。八重樫はとにかく、藤沢の同道をためらった坊坂が足を止めた。そこでまた別の音が響いた。(まご)うことなき車の急ブレーキ音がすると同時に、一台の乗用車がほぼ直角に曲がり、ビジネスホテルの駐車場に突っ込んでくると、速度をそのままに、真っ直ぐ建物に向かって突進して来た。鋼鉄の機械の潰れる盛大な衝突音がした。乗用車は腰ほどの高さのあるれんが造りの花壇にボンネットを食い込ませて停止していた。花壇で停まらなければ、美月たちの座るテーブルをなぎ倒す位置だった。

「救急車!」

坊坂は一声叫ぶと、外に出て行った。八重樫と藤沢も続く。運転席で運転手がもがいているのが見えた。

「こちらへ!」

フロント係が、救急車を呼ぶ様指示する電話の受話器を置くと、美月たちに向けて焦った声を発した。美月と匡子、土浦弁護士、そしてフロント台の前で立ち尽くしていた里子と岡本弁護士も含め、ビジネスホテルの奥に向けて案内される。先程までは、礼儀として隠していたものの敵意と共に相対していた相手同士だが、今は一様に不安そうな表情で、フロント係の後を付いて行く。この建物の一階の廊下は、意図的にそうしているのか不明だが機能的とは言い難い造りをしていた。ひとがすれ違うのがやっとという幅の廊下に、延々と同じ色の壁と絨毯が続き、等間隔でどれも同じに見える花と花の描かれた絵画が飾られ、表示の無い扉が設置されている。その上、裏口の手前、二三のソファと水槽が置いてあって、休息が取れるようになっている場所が見えるまで、角を三つ曲がらなければならなかった。

フロント係はそこに一同を案内するつもりだったらしい。だが、その場所が目に入るのとほぼ同時に、突然、一行の右手の『従業員専用』の表示と合成樹脂製の黄色の鎖で閉じられた地下階に続く階段から、男たちがばらばらと飛び出して来た。美月は当初、外の騒ぎに気付いた従業員かと思ったが、すぐに違うと分かった。男たちは三人いて、二人は上下の作業服姿、もう一人はネクタイを緩めた背広姿だったが、その右手にむき出しの刃物が握られていた。その刃物を見とめた岡本弁護士が悲鳴を上げかけて喉を詰まらし、奇妙な咳払いをした。男たちは突然の出来事に驚愕している一同を、階段とは逆側の廊下の壁に追い詰めた。そこで我に返った土浦弁護士が、男たちに向けて何かを言った。と、刃物を持った一人が、土浦弁護士に刃物を構えたまま体当たりを仕掛けた。男が体を離した時には、刃が赤く染まっていて、土浦弁護士がずるずると背を壁に引きずりつつ、床に崩れ落ちた。岡本弁護士が、今度はしっかりと悲鳴を上げた。

「静かにしろ」

作業服姿の一人に(すご)まれて、岡本弁護士はぴたりと黙った。美月は言われた通り無言で、壁に背をもたれかけさせ、腹を手で押さえ肩で息をしている土浦弁護士の(かたわ)らに(かが)み込むと、傷を確認した。浅く、内臓まで届いていない。しかし精神的な衝撃は傷の深浅(しんせん)とは別物である。本能的に傷口を押さえて出血を止めているものの、放心状態になっている。美月はその手にハンカチを握らせ、患部を強く押さえさせた。

「八重樫ってのはどっちだ」

美月たちにとって男たちの存在と行動が予想外だったように、男たちにとってもごく自然に介抱する美月の行動は予想外だったらしい。故に(とが)めることもせず、代わりにそう問い掛けた。視線は里子と匡子、二人を行き来している。里子は悲鳴こそ上げていなかったものの、今にも泣き叫び出しそうなほどに顔が引きつっている。匡子は、蒼白だがむしろ猜疑の表情を浮かべながら、一歩、無言で進み出た。その腕を作業服の男の一人が乱暴に掴んだ。

ほぼ同時、美月は近くの台に置かれていた細首花瓶を掴むと、血に染まった刃物で威嚇している男の顔に向かって投げつけた。男が咄嗟に左手で払ったために花瓶自体は手に当たっただけだった。だがその拍子、払った手と花瓶、大輪のダリアで男の視界が(さえぎ)られた。美月はその隙に今度は花瓶を置いてあった台の足を掴むと、刃物を持つ手に向かって思いっきり振り抜いた。がきっ、という快音とともに天板の角が命中し、手から刃物が落ちた。正面玄関方向の廊下の真ん中に立ち(ふさ)がっていた作業服の男が、台が当たった箇所を手で押さえて痛がる男の脇を抜けて美月に向かって来た。美月は無言でその股間に向けて足を振り上げた。そこまで狙ったわけではなかったのだが、ちょうど男の陰嚢と肛門の間の会陰(えいん)を美月の爪先が直撃した。男は白目を剥き口の端に泡を吹いて、気絶してしまった。作業服の男が音を立てて倒れ込むのと同時に、美月は、背広姿の男が刃物を拾い上げようとしているのに気付いた。美月は低い体勢で男に飛びかかり、体当たりを受けた男は刃物を拾うことが出来ずに美月もろとも床に転がった。男は頭部を床に打ち付けまいと首を起こして(かば)った。その不安定な状態にある顔面に向けて、美月は頭突きを食らわせ、馬乗りになると男のネクタイの小剣(しょうけん)…結んだ時に体側に来る方…を掴み、一気に引いた。男の首が絞まり、ぐほっ、という余り気分の良くない音が上がった。だが男はめげなかった。美月の髪を掴むと、頬に一発血で汚れている拳を叩き込む。打たれ弱い美月は一撃で失神した。

「その子に乱暴しないで!」

匡子が叫んだ。叫ぶと同時に腕を掴んでいた男が、髪を掴んで頭を壁に叩き付けて黙らせた。背広姿の男は意識の無い美月の頭に更に一発食らわすと、起き上がりざま打ち捨てようとして、失敗した。美月の片手の指がネクタイの結び目に絡まってしまっていて、外れなかった。

「くそっ」

美月は男に覆い被さるような体勢でいる。立ち上がることが出来ず、男は座り込んだまま、結び目をほどこうとしたが、首元の視界に入るか入らないかの位置であることと、利き腕が美月の攻撃で(しび)れたままのため、上手くいかない。そうこうしているうち、裏口から一人、作業服姿の男が姿を見せた。フロント係は誰か助けが来たのかと、一瞬顔を輝かせたが、すぐに絶望に沈んだ。

「何やってる!早くしろ!」

新しく姿を見せた男は、ネクタイと格闘する男に向かって怒鳴った。

「取れないんだよっ」

「そのまま連れてくればいいだろ!そいつだろ、背の低い男のガキって!」

新しく来た男に手を貸され、ネクタイを掴まれたままの男は強引に美月の体を引きずって外に出て行った。ふらふらした匡子もまた、作業着姿の男に強引に引きずられてその後に続いた。作業着姿の男は出て行き様、床に無様に転がったままのもうひとりの男に目をやったが、結局戻って来てその男を連れて行くことは無く、裏口から車の急発進する音が聞こえて来た。その音が消えると、辺りに静寂が満ちた。水槽に酸素を提供するぼこぼこという音だけが響いている。

「警察…救急車…」

不意に上がった土浦弁護士の(うめ)き声に、フロント係が慌てて来た道を戻って行った。

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