#02
バロック音楽の歌曲が流れている。官弦楽器の調べと、ソプラノ歌手の見事な高音が部屋の壁と天井、家具に反響する。都内のタワーマンションの一室、防音加工が施された室内で一人、一人掛けのやわらかいソファの上、背もたれに身を投げ出した二十代後半の男がいた。適度に染色された長めの前髪が、まぶたに掛かっている。まぶたには薄く血管が浮いて出ていた。ソファの傍らのサイドテーブルに酒瓶と底に琥珀色の液体が残ったグラスが置かれていて、その周辺と男自身に、強い酒の匂いが漂っていた。
一見すると眠っているようであったが、その時、不意にまぶたが開かれた。ちょうど曲が変わったところだったが、それ故ではない。顔を動かし、ソファの横、手を伸ばして届くか届かないかの距離に一人佇む同年代か少し若年と思われる男を見る。無理に脱色したような色合いの茶色い髪が肩にかかっているが、それ以外には取り立てて特徴のない顔立ちと、中肉中背の身体。白っぽい服装だが、長袖のシャツは、七月後半、アスファルトの照り返しとエアコンの室外機から排出される熱風に支配される都会の気候では、少々暑苦しそうに感じる。もっとも、常にきっちりと適温が保たれているこの建物内では、それほど違和感のある出で立ちではない。ただ、室内なのに靴を履いたままなのは頂けなかった。
ソファに腰掛けていた男は首をまわして後方にある部屋の扉を見やった。閉まっている。光一筋漏れ出ることもないような堅牢さである。
「おやおや…」
微に眉をあげ、揶揄するような口調の声には、突然室内に現れた闖入者に対して、恐れも、戸惑いもなかった。むしろ面白がっている。ソファの男は、それがひとならぬものであると瞬時で見破っていたし、ひとならぬものを恐れるような生まれでもなかった。
「お愉しみのところ、失礼」
脱色した髪の男…漆嘉遍は詫びた。鈴を振るような、良い声だった。対してソファの男は鼻を鳴らすと、酒の影響でやや掠れた声に恫喝を込めて続けた。
「去れ、美女ならとにかく、男の魑魅魍魎やら悪鬼羅刹の類いに用はない」
漆嘉遍の目が三日月型に歪み、笑みを形作った。
「お望みなら美女でもなんでも変化しますが」
「うるさい」
ソファの男は吐き捨てると、ソファの背に頭をもたれ掛からせ、再びまぶたを閉じた。一周した歌曲が、また冒頭から始まった。
「私を呼んだのは貴殿なのですがねえ」
もし、この場に他者…それもひとならぬものを良く知る誰か…がいれば、その時微かに空気を振動させた、がりがり、という音に気が付いたかもしれない。しかし、目を閉じ、顔を背けながらも、漆嘉遍に注意の全てを奪われていたソファの男は気付かなかった。
「何か話したいことがあるから、呼んだのでしょう」
「呼んだ覚えは無い。去れと言っている」
「随分荒れていらっしゃいますね。何の不自由も無いお立場でしょうに」
「不自由?ない?」ソファの男はやおら笑い出した。「そう見えるのか?ひとならぬものでも?千里眼や、サトリの能力は持ち合わせていないのか?」
言いつつもげらげらと笑い続けている。酒精の影響か、やや感情の制御が上手くいっていない様子だった。
「私は程度の低いもの故」
対して漆嘉遍は冷静そのものだった。静かなその言葉を、聞いているのかいないのか、ソファの男は笑い続け、笑ったまま、音響機器のリモコンを手に取り、流れている男性歌手の歌を飛ばした。
「しかし、貴殿の力は分かります」
「力?」
ソファの男は次々に曲を送っていったので、管弦から吹奏、男性の声、女性の歌と、部屋に響く音はめまぐるしく変わっていた。その中で、漆嘉遍が放った言葉は静かだったが、ソファの男には明確に聞き取れた。聞き入れ、つい応じてしまった。ひとならぬものへの対処の一つはとにかく関わらない、見ない、聞かない、手を出さないことである。その原則から外れてしまった。男が手を止めたので、今は美しいアリアが流れ続けている。
「そう、力」
「力…」
「勿体ない。人の仔の身でそれだけの力を有していながら、使い方を学ばぬとは」
「…力など、ない」
男は顔を伏せると、ぼそりと力なくつぶやいた。漆嘉遍は尋ね返した。
「誰がそのようなことを言ったのです」
誰が、と訊かれ、ソファの男は記憶を探った。誰、というより皆だ、と思い、すぐに否定する。皆、誰も自分に対して力がないなどとは言ったことがない。言葉にする必要もなく、明らかだったからだ。二人の兄に妹の、四人きょうだいのうち、己より二十歳以上年長の長兄の、除霊、調伏の力は圧倒的で、男とは、幼児の膂力を大人と比べようと誰も思わないのと同じで、比較すらされたことがない。
「貴殿の兄上の優秀さは他に比すべくもない」漆嘉遍はつぶやいた。「それは真理。しかし、それより劣るからと言って、力の使い方すら学ばせないのはまた道理が異なるでしょう。いや、単に人の仔は知らないのですかね。貴殿の、秘めた力をどう育てれば良いのか、を。」
「…」
「まあ、その力にしても、いくら励んだところで兄上に及ぶことはないでしょうが」
「…」
「ただ、下の世代とどうするか、ということですね」
「下の世代?」
ソファの男は怪訝な表情で漆嘉遍の顔を見た。
「貴殿の甥、姪たちのことですよ。仮に今、兄上の身に事があったとして、彼の者たちの下風に立つことを甘んじられるのですか。今のままではそうなるでしょう。他の親族、係累、縁者、全てが貴殿を彼の者たちより格下として扱っているのですから」
それは、いやだ。ソファの男はかろうじて口にこそ出さなかったもの、心中ではっきりと拒絶した。長兄に対しては、明確な尊敬と畏怖がある。逆らおうなどとは夢にも思わないし、適当にあしらわれても仕方が無いと諦めている。だが、同じような扱いを甥や姪たちから受けるということには強烈な嫌悪感があった。
「昂美童子」
「え?」
将来訪れるであろう、甥、姪たちから価値のない者として取り扱われる日々を想像し、悶々としていた男は、唐突に発せられたその単語に、少々間抜けな声と顔で応じた。
「昂美童子、ご存知でしょう。僧兵、翠康に敗北した」
ひとならぬものの排除を専門に行う家の生まれである男は、もちろん知っていた。今からざっと五十年ほど前、とある田舎の一地方に棲み着き、人々を相争わせ、集落をひとつを滅ぼしたと言われている悪鬼である。
「あのようなものを、従えてみたいとは思いませぬか」
ソファの男の顔が高揚の為に紅潮した。とかく、鬼退治など過去の遺物として扱われる現代で、しっかりと記録に残っている、悪鬼討伐の話。それに出てくる、剛勇を誇った僧兵。調伏せしめた昂美童子を従え、己の手足のように扱ったという。あの翠康のように、鬼を従えることが出来るというのか。
ソファの男の内心を正確に読み取った漆嘉遍は苦笑を浮かべた。
「彼の者のように、自由自在に、というまでは、流石に。しかし、幾らかの、もう少し格下のひとならぬものを従えられるようになることは可能でしょう。さすれば、甥、姪たちに良い様に扱われることも無い」
「…どうすれば、いい」
沈黙は一瞬だけだった。ソファの男は真っ直ぐに漆嘉遍を見据え、問うた。漆嘉遍は苦笑を微笑に変えた。
「まず、彼の僧兵のことをお調べなさい。そう、彼の者を看取った者はまだ存命の筈。話しも聞けるでしょう」