#19
まだ残っていたの疲労のせいか、翌日に決して気安いことではない諸事を控えているにも関わらず、美月は一晩、熟睡の果てで過ごし、翌朝、空っぽの胃袋に朝食を一杯に詰め込むと、昼の話し合いに向けて英気を養った。とはいえ美月が同席したとして、何かすることがあるわけではない。基本何も言わずに座っていてくれと土浦弁護士から頼まれていたし、美月も余計なことを言うつもりはない。時間が来ると、今回はタクシーで尊雀寺を出た。昨日から何台もタクシーが出入りしている、とコンビニ店員は地主に報告するのだろう。
話し合いがもたれるのは、駅近くにあるビジネスホテルのロビーラウンジだった。利用するひとがほとんどいないので静かで良し、と八重樫は言っていたが、利用客がいなくてどうして営業を続けていられるのか不思議に思った。期せずして、この街の主要施設に連日詣でることになってしまい、地理に詳しくなってしまっている美月は、病院や駅との位置関係を思い浮かべながら、タクシーの座席にもたれかかった。助手席には土浦弁護士が、後部座席には真ん中に八重樫、左右に美月と匡子が、そしてバックミラーに映る、後ろに付いて来ているもう一台のタクシーに坊坂と藤沢が乗っている。この二人はビジネスホテル内には入らないが、近くにある別の店で待機することになっていた。というか坊坂が昨夜もの凄い勢いで主張して、認めさせた。その上美月は坊坂のスマートフォンを持たされ、話し合いの最中に何かあったらすぐに藤沢に掛けて、坊坂と藤沢の助力を仰ぐこと、話し合いが終わったときにも掛けて、ビジネスホテルを出る際には必ず坊坂たちと一緒に、と厳命されていた。さすがに法曹関係者のいるところで毒入り飲料を飲まされたり、怖い人たちが襲撃して来たりすることはないだろうと美月は思うが、警戒のし過ぎで減るものもないので簡単に承諾した。
タクシーを下りてからビジネスホテルに入るまでは、距離にしてほんの数十歩だが、照りつける太陽が肌をちりちりと焼くのが分かった。同じ駐車場にわざわざ一旦タクシーを停止させ、美月たちが建物に入るのを確認してから、坊坂と藤沢は数件先にあるラーメン屋に入った。そろそろ昼で、営業時間になっていたのは幸いだった。
ビジネスホテルのロビーラウンジは少し空調が効き過ぎて、わざと照明が落されているせいで暗く、冷蔵室に入り込んだような感覚だった。落ち着いた色合いの壁紙や絨毯に、瑞々しい葉を茂らした観葉植物が映えている。その植物の間を抜けると、籐で編んだ椅子に中年女性と、二十代と思われる女性、二人が座っていた。年長の方が琴音の母親で西野里子、もう一人は弁護士で岡本と名乗った。里子はふっくらとした顔と体型だが、血色が良く、外皮が皮膚脂肪で盛り上げられているせいか皺も目立たず、髪もきちんと染めているので、疲れやら憤りやらで顔色の悪い瘦せ型の匡子よりも健康的に見えた。岡本弁護士の方は、後ろで一つにまとめた髪、白のワイシャツ、黒の上下のタイトスカートのスーツにパンプス、黒の書類鞄という出で立ちで、就活中の大学生と言っても通じそうだった。美月は万に一つ、琴音が来るのではないかと思っていたが、いなかった。
互いの自己紹介が終わり、紅茶やコーヒーが運ばれてくると、早速本題…琴音による八重樫の殺人未遂の一件…が持ち出された。琴音側は、被害者と示談に持ち込むこと、殺人未遂ではなく傷害に起訴内容を変更させることで、罪の軽減を図るのが目的だと、土浦弁護士から聞かされていた。もっとも後者の方は、琴音がコーヒーに入れた薬の量を白状してしまっていて、それが致死量に達していたので、難しいらしい。そのため余計に示談にこだわるだろうとのことだった。
「この度は本当に申し訳ありません。あの子は本当に優しい子で、でも思い詰めるところがあって、それで…」
「まだ若いというか、思考が幼いのです。これからの環境のあり方で充分変わって行けるかと…」
里子は涙ながらに、岡本弁護士はなんだかきらきらした目で訴えかけて来た。昨日誰よりも八重樫の死を身近に感じていた美月は、白けた気分のまま二人の弁護を聞いていた。結果的に八重樫は生きているし、琴音を守りたい里子の気持ちは理解出来なくないが、殺人犯が普段は優しく思考の幼い少女だったからといって、子供を殺された親が納得すると思っているのかと真っ正面から問い掛けたい気持ちを抑えつつ、隣の八重樫と更にその隣に座る匡子の様子をうかがった。八重樫は退屈そうで、匡子は恐ろしいほどに無表情だった。両者とも短絡的に行動に出る気質なのだが、美月は今回、八重樫よりも匡子の方が暴発する危険性が高いと思っている。もっとも早々に眠り込んでしまった美月と違い、八重樫親子は昨夜遅くまで土浦弁護士と入念に打ち合わせをしていたらしいので、自分たちを不利にするような行動はしないように言い含められているとは思っていた。土浦弁護士は一人、淡々としていた。
「示談に応じる条件はまず一点、西野盛雄氏に、この八重樫郁美さんとの親子鑑定を受けて頂くことです」
それが八重樫の生物学上の父親らしかった。その件が持ち出されることは予想していたのか、里子と岡本弁護士は躊躇無くうなずいた。八重樫との異母姉弟関係が証明されてしまった方が、琴音が思春期の少女らしい潔癖感から暴走した、という言い訳が成り立ちやすくなるのかもしれない。
「分かりました。お受け致します。病院は…」
土浦弁護士は病院の指定や、期日など細部を詰めて行った。もっぱら喋っているのは弁護士二人で、里子は時折岡本弁護士の視線を受けてうなずいてみせるだけ、匡子はこの上ない無表情で里子の一挙手一投足を凝視しているだけだった。
「その他には?」
「今回掛かった治療費その他の諸経費を出して頂きます」
「あと、俺の友人が、そちらのお嬢さんを怪我させただの脅したのっていう、馬鹿げたアレ、取り消してもらえる?」
それまで無言だった八重樫が面倒臭そうな口調で口を挟んだ。岡本弁護士と里子は共に不意を突かれた表情で八重樫を見たが、すぐに承諾した。
「分かりました。その件は不問に」
あっさり受け入れられた。美月は自分が付いて来た意義があったのだろうかと真剣に考え込んだ。
「あとは示談金についてになりますが」
「いらない」
岡本弁護士が切り出した言葉に即答したのは、これも八重樫だった。
「いえ、あの…」
岡本弁護士は困った表情で匡子を見、土浦弁護士を見た。匡子は目を逸らしたりはしなかったが、何も答えなかった。土浦弁護士も、不本意という表情だったが、無言でうなずいただけだった。
「…郁美さん、でしたね。あなたが、その、わたしの娘を憎む気持ちも、あの子の父親を恨む気持ちも分かります。でもそれとこれとは別というか、きっちりとしておかなければいけないことなんです」
里子がゆっくりと諭した。
「憎む?恨む?」
八重樫は薄く笑った。美月は八重樫親子を挟んだ向うにいる土浦弁護士を見やったが、制止する様子は見せなかった。美月は自分同様、八重樫が攻撃態勢に入ったことが分かっているだろう匡子が止めに入ったら加勢しようと思ったが、その素振りは見られなかった。
「そんな感情ないですよ。それに俺は感情論で話しをしているわけじゃあありません」八重樫は里子をひたと見据えて、続けた。「奥さん、二度目、三度目のときのこと、考えておられますか?ねえ、思い詰めたら簡単に他人に毒盛っちゃう娘さん、今後、どれだけ思い詰めることがあるんでしょうね。好きな人が振り向いてくれなかったら?彼氏の浮気を疑ったら?希望の進路で補欠になって、一人入学辞退者が出れば良かったら?大変ですねえ」
八重樫も負けず劣らずゆっくりと、噛んで含めるように話した。言葉が進むにつれ、里子の顔がひきつり、顔色は徐々に赤黒く変色して行った。岡本弁護士はおろおろと、依頼人を見、土浦弁護士を見、八重樫を見た。土浦弁護士は酢を飲まされた様な表情で八重樫を見たが、何も言わなかった。
「今回はまあ、初犯なので不起訴になるかもしれません。でも二度目以降はそうはいかない。裁判所に保釈金を払うことになる。示談金もいる。でも金がない、どうしよう、ってなったとき、お姫様の母親と父親はどうするんでしょうね。俺の友人を脅しに掛かっているのだし、きっと得意ですよね、脅迫。あの時渡した金を返せ、なあんて、俺のところに集りに来られたくないんですよ。ねえ、お分かりでしょう?」
岡本弁護士に向けて、八重樫は微笑んだ。岡本弁護士は酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、言葉は出て来なかった。
「まあ、そういう理由で、出来うる限り、関わり合いたくないんです。金銭的なやり取りは、無しにしましょう」
八重樫は言い切った。もはやその顔をどす黒く染め、唇を血が滲むほど噛んでいる里子と、相変わらず無表情な匡子。泣きそうな表情の岡本弁護士と、必死で無表情を装う土浦弁護士。それぞれの顔を眺めつつ、美月は昨日死にかけた八重樫が、全くめげずに平常運転なことで一安心した。




