表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/38

#17

失神しなかった自分を誉めてあげたいと、そう、病院の廊下のソファで足首の下に丸めたタオルを入れられて横たわっている美月は思った。もし気を失っていたら、救急隊員は美月を介抱するだろうし、そうすれば間違いなく性別が発覚していた。意識を保ち続けた美月は、担架に乗せられた八重樫と共に救急車に乗り込み、尊雀(そんじゃく)寺の住職が入院しているこの病院まで搬送された。そして今この状態になっている。横には藤沢が、壁に背を預けて立っていた。

「おいっす、命の恩人さん。具合はいかが?」

八重樫が、ソファの正面にある緊急処置室から出て来ざまに、いつもと同じ軽い調子で声を掛けて来た。美月は返事はせず、内心で世の理不尽を呪った。救急車の中であっさり意識を取り戻し、病院で点滴を受けた八重樫は完全復活している。検査入院をするかしないかで緊急処置室内で医者と応酬があったのが廊下まで聞こえて来ていたが、この様子では退院を認めさせたらしい。一方の美月は脳貧血は既に治まっているものの、全身がだるくて起き上がりたくなかった。

「まだ無理そうか?」

八重樫の後から出て来た坊坂に尋ねられ、ゆるゆると美月は体を起こした。単に疲労しているだけなので、病院のソファを占領し続けているわけにもいかないのは理解していた。ソファに座り直すと、片手を上げて、返事の代わりにした。起き上がった美月を見て、坊坂と藤沢は安堵した様子を見せ、八重樫はその不機嫌そうな顔に、忍び笑いを漏らした。

二人に続いて出て来た医者と看護師が外来受付に寄るようにと声を掛けて来たのと、坊坂のスマートフォンが鳴るのが同時だった。携帯電話禁止の場所ではないが、病室の前で話すのも気が引けたのか、坊坂は受付のある待合場所まで足早に移動して行った。美月は藤沢と八重樫と共に、のろのろと後から付いて行った。その電話が、匡子と会っている筈の倉瀬家の関係者、石顕(しゃっけん)氏からのもので、病院に着いたという連絡だったのは、後から分かった。その電話連絡自体は実質意味をなさなかった。坊坂が通話している最中に、待合場所にたどり着いた八重樫をガラス戸越しに見つけた匡子が、出入り口を抜けて小走りで駆け寄って来たのである。坊坂は匡子と石顕が会合する予定だった店に連絡を入れ、八重樫の急病と自分の電話番号を伝えておいた。二者は店に着くと同時にそれを聞かされ、慌てて車に取って返し、今到着したのだった。

「郁美、あなた、大丈夫なの!?病気って一体…」

「ああ、うん。そのことなんだけど、ちょっと…」

病院という場所でなければ、大声で詰め寄っていたと思われる匡子の形相に、八重樫は少々迷ってから、母親の腕を引っ張って中庭の方に連れて行った。去り際に、友人たちの方に片手で拝んで来た。状況が状況なので、全部話さざるを得ないがそれには時間が掛かる、その間、石顕氏を頼む、という意味だと美月たちは解釈した。

「坊坂慈蓮くんだね」

匡子が先に行ってしまったので、ひとり残されていた石顕が坊坂に声を掛けて来た。背広姿だが、一目で僧侶だということが分かる雰囲気を持つ老人である。坊坂は一瞬戸惑ったように、石顕を見、その背後を見たが、丁寧に挨拶を返すと、石顕を病院内の喫茶店に案内した。石顕は坊坂に任せ、美月と藤沢は別の場所で休息するということも出来たが、坊坂が一緒に来て欲しそうな様子を見せたため、共に喫茶店に移った。係わり合いになってしまった以上、ある程度の事情を明かすことは仕方ないにしろ『急病』が八重樫親子の私事(プライバシー)に直撃することなので、まともに話してしまって良いのか、美月は冷や冷やしていたが、その辺りはさすがに坊坂がそつなく、『八重樫が翠康(すいかん)の実子ではないかと穿(うが)った見方をする連中への証明の過程で誤解が生じ、襲撃された結果』と説明した。匡子を雇う雇わないの話しの発端が、英凌(えいりん)の翠康への興味であり、石顕も知っていることなので、翠康(すいかん)の実子云々は特に疑問を抱かれること無く受け入れられた。襲撃者についてはぼかしたわけだが、追求はされなかった。巌礎(ごんそ)宗の過激派かと勘違いされたかもしれないが、織り込み済みである。八重樫親子はこの後、警察に出向くよう言われているので、誰かに危害を加えられたという部分を隠すわけにはいかなかった。坊坂もクレープ屋の店員も救急車を呼んだだけなのだが、美月が叫んだ『何か飲まされた』という言葉がしっかりと電話越しに聞き取られていたらしく、消防経由で通報され、やってきた警察車両に、琴音は乗せられて去っている。


美月が頼んだオレンジジュースを飲み干した頃、坊坂のスマートフォンがまた鳴った。今日は大活躍だな、と横目でチタン製のカバーが掛けられた小型の機械を見やった。電話は八重樫からで、話しが終わったという連絡だった。わざわざ病院内の公衆電話で掛けて来たらしい。

駐車場で再び一同は顔を合わせた。匡子は何気ない風を装っているものの、息子を殺されかけた怒りが漏れ出た表情で、美月や巻き込んでしまった石顕に向かって頭を下げた。石顕が穏やかに切り出し、匡子の面談は後日改めて、ということになり、石顕を駅に送り警察署に(おもむ)くために、一同は車に乗り込んだ。

後部座席に座った途端、強烈な睡魔に襲われた美月は抵抗すること無く眠り込んだ。そのため、駅で石顕と共に坊坂が下りたことに気づかず、警察署で藤沢に起こされ車を下りた際に初めて気づいた。

「あれ、坊坂消えてる」

寝ぼけ眼というか、よく働いていない頭を反映するような瞳で、美月は車を降りた人数を数えて言った。

「石顕さんと話したいんじゃない?駅で下りた。ひとりで戻るってさ。はい、これ、タクシー代。領収書貰っておいてね」

美月に応答しつつ、八重樫は藤沢に警察署から尊雀寺までのタクシー代を渡した。ここから乗った方が駅からより安く済むのだそうで、当初は坊坂を含めた三人がここで別れる予定だった。警察での用事がどれほど長くなるのか分からないので、先に帰っていて欲しいとのことである。藤沢はタクシー代を受け取ると、本調子でない美月を連れて、客待ちのタクシーが停まっている場所まで移動した。


駅で下りた坊坂は、八重樫の予想に反して、石顕が列車に乗り込むまでの間、当たり障りの無い会話をしただけで、石顕を見送るとすぐに踵を返して駅の外に出、辺りを見回した。列車が出たばかりということでか、坊坂以外、駅の周辺には誰もいない。乗り合いバスの発着所にはそれぞれバスを待つ客のためのベンチがあるのだが、そこにもひとっ子ひとり座っていない。近くの国道を走る車の走行音が聞こえてくるが、それだけで、静まり返っている。坊坂はしばらく周囲を伺っていたが、程なくして、鉄道の沿線に沿った、車両の入れない小道を歩き出し、数十歩進んだ、駅のホームが途切れたところで足を止めた。線路脇には、そこから色とりどりの花が植えられたプランターが少し先まで並べられているが、線路の位置が小道よりかなり高いところにあるので、坊坂から花は見えずにただ白い無機質な樹脂のかたまりが並んでいるだけだった。右手には飲料の自動販売機が設置されていた。同じ系統の自動販売機が駅の待合室にもあるので、更にここに設置して儲けがあるのかは疑問である。自動販売機のすぐ横を除いて、後ろ側には腰ほどの高さの白い金網が張り巡らされていて、駐車場になっている。この駐車場に車を停めると、今坊坂が歩いて来た道を使って駅に向かうことになる。坊坂は自動販売機の後ろ側をのぞき込み、何も無いことを確認すると、遠目に一台しか停まっていない鈍色の車を眺めた。相変わらず車の走行音が響いて来ているが、それ以外の音は無い。

しばらくの後、何も起こらないのを確認して、坊坂は来た道を戻って行った。坊坂の姿が駅前に消えたのを確認して、漆嘉遍(しっかへん)は砕石と砂利の上から体を起こした。

…行ったか。

坊坂が見ていた駐車場とは逆、プランターの間に腹這いになって、漆嘉遍(しっかへん)は隠れていた。石顕の後を付いて来たのだが、病院の待ち合い場所で己に目を止めた様子を見せられたので、それ以上翠康の関係者に深入りしなかったのだが、正解だったようだ。

…厄介だな、いろいろと。

このまま翠康の関係者に直接接触するのは危険かもしれない。そう考えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ