#16
早めに終えた昼食の後、匡子の運転する車で、再び美月たちは以前訪れたスーパーマーケットの駐車場に下りた。指定されたクレープ屋は、このスーパーマーケットと同じ敷地内の別棟の建物の一階に入っていた。隣はハンバーガー店で、そちらが指定されなかった理由は、恐らく席の間隔が狭いからだと思われた。約束の時間は午後一時だったが、少々遅れている。匡子は四人を下ろすと、倉瀬家の関係者と会うべく、別の場所に向かって行った。むろん、息子たちがこれから会う予定の相手については知る由もなかった。
「あ、あの子だ」
匡子が駐車場から国道に出て行くのを見送って、ガラス張りの店内に目をやった八重樫がつぶやいた。窓際の席に美月たちと同年代の少女がいた。肩より少し長い艶の良い黒髪を、耳の上の部分だけ後ろにすくってヘアアクセサリで留め、残りを垂らしている。横顔だけだが、ふっくらとした頬にぱっちりとした目のなかなかの美少女だった。八重樫には全く似ていない。前のテーブルの上に、苺のストラップの付いたステンレスの水筒が置いてあり、それが目印とのことだった。
「先に入るわ」
坊坂が声を掛けると、八重樫がうなずいた。美月は男の格好のままなので、男三人で、特に百八十センチ以上の上背とどう見ても百キロはある体重の持ち主の藤沢を含んだ一行は、予想違わず店員と店内の客から注目の視線を受けたが、一切無視して、奥の、椅子がソファ型の席に着き、それぞれに注文した。美月が目をやると、窓際の少女は落ち着かない様子で、目の前のチョコレートクレープにフォークを突き刺したかと思うと、スマートフォンを取り出して弄り、立ち上がりかけて、また座った。
数分を開けて、八重樫が店内に入って来た。声を掛けて来た店員に手を振って席の案内を断ると、真っ直ぐに窓際の席に向かった。無言で黒髪の少女の前に座ると、ちょうどスマートフォンを眺めていた少女は、はっとして顔を上げた。
「八重樫郁美です」
「…西野琴音です。頼んでおきました」
自己紹介のあと、メニューと水を持って来ようとした店員を追い払うと、琴音は少し震えている声で、八重樫の前に置かれているコーヒーカップを示した。肉厚のカップに入ったもので、既に湯気は立っていなかったが、八重樫は特に気にすることなく、口をつけた。喉がからかからに乾いていたのは、暑さのせいだけではなかった。
「最初、名前を見たとき、女の子かと思った」
「どっちともとれるね」
目を伏せてテーブルを見たまま、独り言めいてつぶやいた琴音に、八重樫は簡潔に応えた。
「それで?」
八重樫が感情を抑えた声で尋ねたが、琴音は下を向いたまま、答えなかった。八重樫もそれ以上何も言わなかったので、しばらく沈黙が落ちた。
「母は、知りません」
「…」
ややあって、琴音がつぶやいた。相変わらず頭部も視線も下を向いたままで、八重樫を頑として見ようとしなかった。微かに体全体が震えている。
「…父も、知りたく、なかったと、思う」
絞り出すように、声を発した。
「わたしも、知り、たく、なかった」
テーブルの上に涙滴が落ちて、散った。八重樫は無言、無表情のまま、俯いている琴音の頭頂部を眺めていた。
「兄、と、姉、は、知らない」
声が掠れていた。なんとか、ひとつひとつの単語を区切りながら、言葉として発している。八重樫は黙ったままだったが、ゆっくりとその顔から血の気が引いていた。
美月は座席の位置関係上、ずっと八重樫と琴音を見守っていたわけではなかった。そのため、八重樫の顔色の変化には気付かなかった。逆に二人を始終眺められる位置にいた藤沢は気付いたが、単に血色が悪くなっただけでは、それほど気にしなかった。だが、八重樫が突然がたがた震え出した時には、思わずテーブルを叩いて、美月と坊坂の注意を促した。美月と坊坂がはっとして、窓際の席を見やるのと、八重樫が椅子から転がり落ちるのがほぼ同時だった。店内に響いた大きな音に、店中の客と店員が一斉にそちらの席に注目した。
『八重樫!』
美月と坊坂と藤沢、三者がほぼ同時に声を上げた。駆け寄ったのもほぼ同時だった。美月は八重樫の上半身を抱え込み、上を向かせ、頬を叩いた。八重樫の眼球が動いて、美月の顔を見とめたようだった。が、すぐにまぶたが閉じられた。顔は蒼白で血の気が全くなくなっている。首に当てた美月の指に感じる鼓動が酷く弱かった。
「救急車!」
美月が叫ぶと、坊坂が反射的にスマートフォンを取り出して、119番に掛けた。近くにまで寄って来ていた店員の一人が、慌てて奥にいる別の店員に向かって、同じことを叫んで伝えた。
…何が、起こっている?
八重樫の状態に全能力を集中させた美月の脳裏に、体内の何かがもの凄い勢いで失われている様子が映った。水の浸った容器に一斉に大穴が幾つも開けられ、水が漏れて行くかのようだった。美月が知る限り、自然に発症したものではない。
…これは…。
顔を上げた美月の目に、テーブルの上のコーヒーカップが留まった。
「コーヒー!何か飲まされた!バッグ!その女の!こっちに寄越して!」
美月の大声に、それまで静かに座っていた琴音が反応した。足元の荷物入れに入れられたバッグを取られまいと動いた。だがバッグを確保する前に、素早く動いた藤沢が、琴音の二の腕を押さえた。相手が男であれば楽だった。藤沢は問答無用で相手を殴り倒して奪い取っただろう。だが今回、相手は同年代の女子だった。乱暴に振る舞うことが出来ず、必死で抵抗する琴音と揉み合いになった。それでも藤沢は琴音をバッグから引き離すと、荷物入れごと美月に向かって蹴って送った。琴音は椅子の中に崩れ落ちた。
美月はバッグを取り上げると、躊躇無く中身を床にぶちまけた。花柄のハンカチや日焼け止めに混じって、白地に紫色で文字が印刷された素っ気ない外観の薬局の紙袋が転がって出た。
「調べて!」
救急車を呼び終えていた坊坂に袋を投げ渡す。坊坂は手早く紙袋に印刷された片仮名の薬名を検索した。
「糖尿病の薬だ」
文明の利器はすぐに答えを教えてくれた。坊坂は口頭で伝えると共に、薬の説明ページを画面に表示させて美月に示す。
「ああ、そうか、これ、減ってるの、糖なんだ」
美月は画面は見ずに独り言ちた。何とか減少していく糖を止めようとしたところで、差し出された液晶画面の文字に気付いた。
「砂糖!あと水!」
美月に言われて、坊坂がテーブルの上の砂糖壷と水のグラスを美月に渡した。半開きの八重樫の口をこじ開けると、それぞれ中身を流し込む。薬の説明文にしっかりと副作用、低血糖状態が起こった場合の対処法が記されていた。ブドウ糖が最善とされていたが、とにかく糖分を摂取させれば良いらしい。
…吸収して。
美月は全力で能力の行使をし、八重樫の肉体に働きかけた。もともと初見の症状を即座に治癒出来るほどの力を美月は持ち合わせていない。必死に失われて行く血液中の糖分を経口の砂糖水で補わさせようとする。だが、明確な意志を持って盛られた量の薬は凄まじい効力を発揮していて、吸収より減少の方が遥かに速かった。美月は体を震わせた。八重樫の生命活動が急激に低下しているのが分かった。濃い、章章たる死の気配を感じ取って、美月の全身が凍りつき、恐怖の叫びを上げかけた。
叫びは上げられなかった。美月が干渉している八重樫の中から逆に何かが美月に向かって来て、その驚愕が美月の喉を寸前で閉じたのだった。叫びの代わりに鋭い息が漏れた。
…なに?だれ?
内心で問い掛けた次の瞬間、それは美月に触れて来た。暗闇で突如生暖かいものに全身を包み込まれたような感触、というのが近いだろうか、拒絶や抵抗をする暇などなく、美月の中に強大で膨大な力が流し込まれた。美月の結んだ口から再度裂くような息が漏れた。美月はともすれば暴走しそうなその力に懸命に集中すると、八重樫の治癒に振り向けた。ほぼ一瞬だった。その力の奔流は美月の働きかけを命令へと変え、八重樫の体は命令通りに糖を急激に吸収した。薬の作用で失われて行く量と吸収されていく量が、ほぼ均等になってもまだ、力は余分にあった。美月はそのことに気付くと同時に、治癒の方法を変えた。八重樫の体内で糖を減少させている薬の成分そのものを探す。普段であれば、体調不良の原因を見つけるのには、家一軒分ほどの量の絡まった糸玉を一本にほどいて行くくらいに根気のいる複雑な作業なのだが、今は違った。強大で膨大な力は糸玉を剣で両断するかのごとき迅速さで、薬の成分を解してくれた。その成分が異物であり、今すぐ攻撃しなければならないと、八重樫の細胞のひとつひとつに認識させる。その命令に従い、全ては不可能だったが、あらかたの薬の効力は瞬時に破壊された。そこまで行ったとき、美月は、力が引かれ、力を与えてくれていた何かもまた、引いて行くのを感じた。
美月は大きく息を吐いた。
「もう、だいじょうぶ」
時間にして数分だった。だが美月に取っては数時間にも及ぶ大手術を行った気分だった。美月のつぶやきに、傍らの坊坂がうなずいた。素人目に見ても、八重樫の顔は生気を取り戻し、静かに眠っているだけになっていた。
「助かるのか?」
テーブルの向こう側で琴音の両肩を押さえている藤沢の問いに、美月は顔をあげると、深くうなずいた。藤沢や、その他、周りで成り行きを見守っていたひとびとが一斉に安堵の息を吐くのが分かった。
「死なないの?」
八重樫が倒れて以降一言も発せず、藤沢に身柄を押さえられてからは再び静かに椅子に座っていた琴音が、言葉を発した。店内のひとびとが皆、びくりと体を震わして、少女を見やった。琴音は今は顔を上げ、真っ直ぐに横たわる八重樫を見据えていた。その両眼から涙がはらはらと落ち、柔らかい頬をつたって、テーブルに落ちた。
「死なないの?」
同じ唇から再びつぶやきが漏れた。美月は八重樫の頭部をそっと床に下ろすと、ゆらりと立ち上がった。誰もが無言だった。美月は琴音に近づこうとして、足をもつれさせ、片手をテーブルについて体を支えた。テーブルの上の皿やフォークが音を立て、店内に響いた。テーブルに手をついたまま、逆の腕を伸ばす。呆然と美月の姿を眺めていた琴音の顔面がわし掴みにされた。プロレス技で言うアイアンクローである。琴音の顔がひくりと引きつった。
「黙れ。黙らなかったら、わたしが、お前を、死なせてやる」
本気だった。それは琴音にも伝わった。ひい、という悲鳴が、琴音の喉の奥から漏れ、同時に下方から水音が響いた。琴音は失禁していた。
「うわっ」
美月の殺気に当てられていた藤沢だが、珍しく焦った声を上げると、琴音の両肩をほどいて後ろに飛び退った。美月も状況に気付き、後退しようとして、再び足をもつれさせ、倒れかかった。坊坂が支えたのでなんとか腰を打ち付けることは回避した。
「気持ちは分かるが、女の子相手にやり過ぎだ、須賀」
坊坂に支えられつつ床に座り込んだ美月に、坊坂が小さく声を掛けた。美月は笑い出した。
「坊坂、あんた、ほんっとうに、育ちがいいんだな」
「…」
「いつか、絶対、女で、痛い目見る」
「分かった、分かったから」
坊坂は狂ったように笑い続ける美月を必死で宥めた。能力を限界まで使った反動が来ているのが分かった。美月の顔は土気色で、目は空ろ、坊坂が支えているからなんとか倒れずに保っているもの、上半身が固定されずに揺れている。意識はあるようだが脳貧血状態にあるのは明らかで、感情の制御も失っているようだった。端から見ると、八重樫よりもよほど病的である。
サイレンの音が聞こえて来た。ドップラー現象で音が変化したように感じると同時に、店の外に数台の緊急車両が停止した。




