#15
匡子が午後に倉瀬の家の関係者と会う予定の日の朝、美月は偶然にも電話に出た。朝食を終え、美月が庫裡で洗い物をし、匡子がちょうど席を外していたときで、他にひともいなかったので、特に深く考えもせずに出たのだった。
「八重樫さん、いますか。わたし、同級生の琴音と言います」
受話器から聞こえたのがどう聞いても美月と同年代の少女の声で、しかも恐らく個人名と思われるものを名乗ったため、美月は少し驚いた。次に笑みが溢れてきた。声が高くなるのを抑えながら、少々待つように言って保留にすると、庫裡の勝手口から出た。八重樫を含む男子高校生三人は、薪置き場の辺りで、草刈りのための装備を準備していた。
「八重樫、電話!同級生の、コトネちゃんから!」
美月がコードレスの受話器を掲げつつそう叫ぶと、八重樫は顔を上げ目を見開いた後、怪訝そうな表情を浮かべて小走りでやってきた。美月が大声で告げた女性名に、坊坂と藤沢も一瞬目を見開き、次に美月と同じように笑みを溢れさせた。
「コトネ、って、言ったの?同級生だって?」
尋ねる八重樫に、美月は笑みを浮かべつつ無言で受話器を押し付けた。八重樫は受話器を受け取ると、隣の私室に入って引き戸を閉めた。美月は鼻歌を歌いつつ洗い物に戻ったが、すぐに勝手口に坊坂と藤沢が草刈り装備を携えて姿を現した。両手が皿とスポンジで塞がっている美月が、顎で私室を示すと、美月と同じく笑みを浮かべながら、二人は閉じられた引き戸を眺めていた。美月が洗い物を終える前に、引き戸は開かれ、電話を終えた八重樫が受話器片手に姿を見せた。勝手口に立つ坊坂と藤沢に目を留めるとちょっと眉を上げたが、すぐに笑顔になった。
「悪い、俺、今日の午後、母さんに乗せてもらって街まで出るわ」
『…』
美月たち一同は無言で八重樫の顔を見つめた。
「中学のときの同級生なんだけど、なんかさあ、会いたいんだって。ま、あれだ、チャンスは逃さないようにしないとな」
八重樫は弾んだ声で続けると、笑顔を更に深くした。
「八重樫…」一拍置いて、坊坂が溜め息混じりの声を発した。「顔色と、台詞と、あと表情があってない」
八重樫はまじまじと坊坂を見、藤沢、美月の順でそれぞれの顔に視線を移した。美月と藤沢は共に深くうなずいた。八重樫は完璧に嬉しげな声と笑顔を作っていたが、顔色は病人のそれだったのだ。真顔で己を見つめる友人たちに向け、八重樫が口を開こうとしたそのとき、美月の目に、ちょうどこちらへ戻ってくる匡子の姿が入った。美月は反射的に八重樫の腕を引っ張ると、受話器を取り上げ、勝手口の方に押し出した。美月の意図に気付いた坊坂と藤沢が、八重樫を促して、草刈りの装備とともに屋外に出た。
大僧正の訪問と言う一大事があった翌日の尊雀寺の一日はごく普通に始まり、終わった。美月は坊坂と、前日に中途半端に終わってしまった縁の下のすす払いを引き継いで、八重樫と藤沢は薪割りに精を出した。普段と異なることと言えば、次の日の午後に出掛ける予定の匡子が、二日分の食事を用意していたことくらいで、そのためにその日の昼食は半端に残っていたもの全てをゆでたという、一定しない量の素麺、冷や麦、蕎麦、うどん、パスタに、出汁の効いた麺つゆ、冷製のホワイトソースとトマトソース、ツナ、明太子、海苔、梅干し、紫蘇漬け、納豆、かにかまぼこ、ハム、チーズ、各種野菜が無造作に皿に盛られたものになった。美月が食後の休憩中に、昨日買って来てくれていたものの、日持ちのしないカップゼリーが優先されたために冷凍庫で保存されていたアイスを食べていると、何故か腹ごなしと称して、プロレス技の掛け合いが始まった。八重樫は両手でピースサインをしながら、藤沢にジャイアントスイングを掛けられていた。食べた直後でよくやると美月は呆れた。
絶好調の藤沢が午後も頑張ったために、薪割りが一日で終わってしまった。二日を掛ける予定だったので、次の日が丸一日空いてしまった。詰める仕事もなかったので、勉強漬けの日にしようかという話しも出たが、坊坂が、今は一応見られる程度にしか刈られていない墓地周辺の雑草をもう少し刈り取りたい、放置されている古い墓を掃除したいと言い出した。特に墓が気に掛かっていたらしい。掃除であれば美月も出来るということで、午前中の涼しい間は草刈りと墓掃除、午後は扇風機を掛けて勉強、に予定が決まった。
「で、誰なんだ。そのコトネってのは」
そしてその予定に沿って、四人は墓地にいた。坊坂たちが庫裡から出て行った後、美月は残りの洗い物を戻って来た匡子に任せると、すぐに墓地に向かって合流した。墓地の端、朽ち果てかけている墓所の前で、四人が車座になっている。坊坂の問い掛けに、まだ余り顔色が良くない八重樫は溜め息を吐いた。美月も若干顔色が悪かった。声色と喋り方に惑わされて、疑わずに電話をまわしてしまったが、この八重樫の尋常でない様子を見るに、失策だったことは明らかである。
「姉だって、俺の」八重樫はぼそりとつぶやくと、再度大きく息を吐いて続けた。「母親は違う。つまり、異母姉ってやつ。言っちゃうとね、俺の生物学上の父親って、俺が生まれる前も後もずっと別の女性と結婚しているんだよ。そっちの子供が掛けて来た。会いたいって」
「…おばさんが、八重樫が翠康の子供ではないことをはっきりさせるために、八重樫の生物学上の父親に連絡して…いや法真殿が代わりにしたのか、おばさんにそんな暇無かったし…そちらの家庭の子供が連絡して来た、ってことか」
しばしの沈黙の後、坊坂が確認すると八重樫はうなずいた。
「なんで会うんだ。会う必要ないだろ」
藤沢が低い声を発した。八重樫は顔をしかめた。
「ないっちゃない。でも、母さんを呼び出されるよりはましというか…」
「法真殿に連絡して、こんなこと言って来た奴がいましたって報告して任せれば良いだろう。向うに話しを持って行くことになったのは法真殿が翠康の件で余計な口出しをしてきたしたせいなんだし。八重樫にしろおばさんにしろ、前面に出て行く必要は無い」
「というかさ、おかしいでしょ。なんでここの電話知っているの。普通、家の中でこの手のごたごたがあっても、子供に詳細話さないよね。本当に本人?いやそもそも、本当に向うに子供いるの?同年代の呼出しなら応じると思ってそれっぽいひと使ったんじゃない?八重樫なら子供で、与し易いと思って狙い撃ちして来たって可能性は?」
坊坂と美月が次々にまくしたてた。八重樫は少し驚いた表情で一同を見やった。しばらく無言だったが、突如笑い出した。普段は静かな墓地に笑い声が響いた。三人はそんな八重樫を無言で眺めていた。ややあって、笑いを治めた八重樫が顔を上げると、その顔色は既にいつも通りに戻っていた。
「うん。ごめん。いや、みんな、よく考えるよね」
八重樫は一旦言葉を切ると、笑みは残したまま、少し真面目な様子になった。
「話しを聞く限りでは、本当に異母姉だと思う。あと、電話は始め総本山に掛けて、そこで、ここに俺がいるって聞いたらしい」
総本山でも、俺の同級生と思って電話番号を教えたんじゃないか、と八重樫は推測を付け加えた。美月も相手を特に疑わなかったので、責められないと最初は思ったが、美月は別に個人情報を流した訳ではないので、やはり総本山の個人情報の扱いのいい加減さは責められるべきだと考え至った。
「あと、会う理由がないってことだけど、しいていえば、こっちの都合で向うに迷惑かけてるんだから、要望を聞くくらいしたほうがいいかなって、それだけ」
「お前が聞かなきゃならない理由はないだろ」
「それはそうなんだけど、さっきも言ったように、母さんに何か言われるくらいなら、俺が言われるほうがましってことだよ」
そう言われると、一同は何も言えなかった。実際問題として、当人が会うと決めてしまっている以上、美月たちが行動を制限出来ることでもなかった。だが、逆に美月たちの行動を八重樫が制限することも出来ないのだ。少し間を開けて、坊坂がきっぱりと言い切った。
「なら、俺らも着いて行く。向うに分からないように振る舞っておく。向うが異母姉だけじゃなくて誰かよく分からない大人がいるとか、八重樫を脅すようなことを言って来たりしたら、助勢する」
「八重樫が脅されてビビるような奴じゃないってことは知っているけど、こういうときはガタイがいいのが一人いるだけで、相手の態度は一気に変わるよ」
美月が口添えして、藤沢が深くうなずいた。八重樫はこくこくとうなずいた。
「分かった分かった。お願いします。三人は別の席で待機、何かあったらすぐに呼ぶってことで。あ、そうだ須賀はこの際女装して付いて来てよ」
「は?」
目を丸くした美月に、八重樫は快活に笑って言った。
「待ち合わせに指定された店がさ、クレープ屋なんだよ。男三人でクレープ屋って、もの凄く目立つだろ。女の子がひとりいれば、さ、大丈夫だろ」
八重樫が本気で言っているわけではないことは充分承知していたが、取り敢えず美月は竹箒を八重樫の頭に振り下ろした。




