#11
大僧正の来訪は本当で、坊坂と藤沢の後にすぐ、作務衣姿の若い修行僧が、おろおろしながら庫裡に姿を見せ、お茶の用意を頼んで来た。大僧正は一人ではなく、お付きの僧侶と合わせて三名が本堂に上がったので、匡子はその人数分、客用の高級茶葉で新しく淹れた茶を掲げ、本堂に向かった。
庫裡には高校生四人が残されていた。時間的にはまだもう少しやれそうだったが、掃除場所の本堂付近から追い払われてしまった坊坂と藤沢は、体に付いた埃を払った後、床に直に座り込んでいた。藤沢は座り込む前に、今日の自分たちの夕食になる切り分けられた人参を一つつまみ食いしようとして、美月に手の甲を叩かれていた。夕食は、準備に時間を割きたくないとの理由で、野菜と肉を初日と同じように七輪で焼くという献立だった。
「何なんだろうな」
突然のお偉いさんの来訪という事態である。坊坂のつぶやきは当然のものだったが、答えられる者はいなかった。八重樫は目はしっかりと手の中で切れ込みを入れられる椎茸を捕らえつつ、首を振って、困惑を示した。
と、またもや副住職の声が聞こえた。本格的に叫んでいる。庫裡と廊下を仕切る引き戸は、匡子が出て行ったときと同じ、開け放たれたままなので、その叫びが直接的に庫裡内部まで聞こえて来た。四人が顔を見合わせた後、坊坂が無作法を承知で引き戸に寄り、廊下に身を乗り出して声が上がった、本堂の方角を伺った。段々と声量が増して来て、叫び声の主が近づいてくるのが察せられる。そして、ひときわ大きな声が響いたと思うと、角を曲がって、匡子、両目が離れたのっぺりした顔の僧侶、深い皺を刻んだ初老の僧侶、の順で三人の人影が姿を現した。三人は整列して行進して来た訳ではなく、先頭の匡子の歩みを、続く僧侶がなんとか阻まんと前に回り込もうとしているのだが、狭い廊下で上手く行かず、毅然として一定の早さで歩き続ける中年女性、その周りをうろうろする僧侶、更にその後を沈痛な面持ちでとぼとぼ付いてく初老の僧侶、という構図になっていた。匡子はそのまま一切の妥協を許さないしっかりとした足取りで、庫裡に足を踏み入れた。引き戸付近に居た坊坂は気圧されたように身を引いて、匡子を通した。美月はその憮然とした表情の顔が、八重樫そっくりであることに気付いた。匡子はそのまま庫裡から隣の部屋…八重樫親子の私室となっている部屋…に入ると、やおら隅に置かれた整理箪笥の一番上、小さく仕切られた小引き出しを引き抜くと、中身を畳の上にぶちまけた。
「なにごとぉ?」
八重樫が、母親の様子を包丁片手に眺めつつ、声を掛けた。匡子は息子の問いかけを完全に無視して、今度は押し入れから化粧道具箱を取り出して、ひっくり返した。六畳間の床は、通帳やら印鑑、手文庫にファンデーションや口紅と言った品々で足の踏み場が無くなってしまった。
「何をしているんです!いや、それより、早く、大僧正様に、お詫びを…」
「何があったのですか」
物が散乱しているために、庫裡と私室の境に立ち、それ以上踏み込めないでいる、のっぺり顔の僧侶が声を上げた。その甲高い声で、美月はそれが副住職だと分かった。八重樫は、副住職の背後から悲壮な表情で、畳の上に散らかった品々を見ている、初老の僧侶に問い掛けた。
「あ、いや」
問い掛けられた初老の僧侶は、そこで初めて庫裡に自分たち以外にひとがいることに気付いたようだった。八重樫の方を振り返ったものの、気まずそうに口を閉ざした。
「大僧正様のお言葉を聞いて、いきなり席を立ってしまったのです!」
代わりに、勢い良く振り向いた副住職が金切り声で答えた。爬虫類や両生類を思わせる顔立ちだが、表情は非常に豊かで、憤慨していることが一目で知れた。
「何を話されたのです」
対して八重樫の声は静かで、妙に無表情だった。
「君のことですよ!君の父親は翠康ではないのかと問い掛けたらいきなりです!」熱り立っている副住職は、初老の僧侶が必死の形相で制止しているのに気付いていなかった。「いきなりですよ!何も言わず!睨みつけて!礼というものを知らないのですか!」
「それは怒るのは当たり前というか、むしろ怒らないとおかしいのでは。巌礎宗は妻帯禁止でしょうに」
坊坂が反射的に口を挟んだ。口には出さなかったし、巌礎宗の戒律も知らなかったが、藤沢も美月も同感だった。いくらなんでも無神経な質問である。ついでにいうと八重樫の短気というか、即行動に出る気質が母譲りだという認識も、友人一同で共有した。
「翠康が女犯を犯していたことなど、誰でも知っています!」
空気を切る音がするのではないかと思うような勢いで、副住職が坊坂の方を向いて、叫んだ。
「そういう問題じゃない!」
続けざまに放たれた大声に、びくりと、副住職と初老の僧侶が体を震わせた。匡子は庫裡で別個に応酬がされている間、化粧道具箱の中から転がり出た鍵で小引き出しの中にあった手文庫を開け、中の書類や封書を畳の上に散らしていた。その中から拾い上げた手の平に収まる紙片を握りしめ、隣の部屋から二人の僧侶を睨みつけていた。一瞬落ちた静寂の中、音も立てずに副住職の傍らをすり抜けた八重樫が、匡子の前に立った。
「母さん、落ち着いて」
「あなたは翠康の子じゃない」
「知ってる。で、それ、何?」
八重樫は匡子の手の中の紙片を顎で示した。匡子は問いには答えず、憤りの表情を浮かべたまま言い募った。
「冗談じゃない。どうしてそんな話しになるの」
「落ち着いてって」
「勝手に翠康の子にされてたまるものですか」
「分かってるって。で、それは?」
「DNA鑑定でも裁判でもなんでもやってやる。そうすれば…」
匡子の言葉半ばで、八重樫がゆらりと動いた。一瞬の後、匡子の手に握られていた紙片が、八重樫の手に移っていた。
「返しなさい!」
紙片を取り上げられたことに気付き、立ち上がり、飛びかかって来た匡子を、八重樫はひらりと躱した。そのまま狭い部屋の中で母子が睨み合った。
「ええと、その、お父上が誰かは分かっているのですな。証明がされていないというだけで」
初老の僧侶が遠慮がちに、副住職越しに声を掛けた。匡子は八重樫から目を離さないまま、うなずいた。
「そう、そうです。だから証明してしまえばいい」
そう言うと、面白くもなさそうに匡子から奪い取った紙片をくしゃりと握りしめた息子に向かって尋ねた。
「あなたは一体何を考えているの」
「何って…いまさら生物学的な父親を持ち出されても…生々しいというか、生臭いし。困る、気分的に」
八重樫は一旦言葉を切ると、大きく息を吐いた。ことさらに面倒臭そうな声色で続けた。
「って言うかさあ、俺の母親は母さんで、師父はじいちゃん。それでいいじゃんか」
「良くないからこうなっているんでしょう!」
匡子はこの日二度目の大声を上げた。同時に大股で八重樫に近づくと、その両肩を掴んだ。八重樫は躱す気もなかったらしく、紙片を握った手は後ろにまわしたものの、されるがままである。
「翠康の子供だなんて思い込まれたら、あなたはどんな目に遭わされるか!郁太郎が、どんな目に遭ったと思っているの!」
肩を掴んで揺さぶる匡子の両腕の内、片方を、八重樫は紙片を握っていない手で押さえた。
「落ち着いて。俺とじいちゃんは違うから…」
「そう、違う。あれは強かった。だから追われるだけで済んだ。あなたは違う。殺されてしまうかも」
「いやいや逆だから。じいちゃんが強過ぎたから警戒されたのであって、俺は強くないから…」
「わたしはあなたを守ると約束したの!」
「…俺もじいちゃんと約束した。母さんを守るって。相手の男と連絡取るとかしたら、傷付くのは母さんだから。それは、絶対に、嫌だ」
「そんなこと…」
「絶対、傷付くことを言われる」
八重樫は吐き捨てた。匡子は八重樫の物言いに、少し目を見開いた。だがすぐに平常に戻ると、じっと八重樫の顔をを見つめた。
「それでも、あなたの身に危険が及ぶよりは、ましです」
「…」
「返しなさい」
八重樫は溜め息を吐いた。後ろ手にまわしていた手を戻す。その手から紙片を受け取ると、匡子はさっさと部屋を出、庫裡を出て、本堂に戻って行った。しずしずと初老の僧侶がその後に付いて行く。匡子にどやされて以降、一連の間中呆然としていた副住職が我に返ると慌ててその後を追った。




