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#10

電話の呼出し音が鳴ったのは、滞在中の部屋で、美月が座布団に延々とカバーを取り付けるお仕事をしている最中だった。その音を聞き留めて、美月は初め、どこかの部屋のテレビで、古い映画を流しているのかと勘違いした。呼出し音は黒電話特有の音だったのだが、美月が庫裡で見かけていた電話は、よくある量産品の一機種だったので、それが鳴っているとは考え付かなかったのだ。単に呼出し音が選択出来る型の機種で、選択肢の一つの黒電話の音が設定されているだけの話しで、美月の向かいで座布団のほつれを(つくろ)っていた匡子がさっと立ち上がり、電話を受けに行った。匡子が戻ってくるより早く、草刈りをしていた三人が、仕事を終えて戻ってきた。

「あれ、母さんは?」

「電話に出てる」

「そっか」

泥の付いた軍手をはめた八重樫の手には、壊れた竹の柵があった。尊雀(そんじゃく)寺の敷地内には数カ所石灯籠が点在しているが、その周りに(すね)ほどの高さの竹の柵が設置してある箇所がある。その一つが壊れていたのだ。どういう状況でこのような壊れ方をするか、という議論を、縁側に座り込み匡子が用意しておいてくれた麦茶が入った給水容器(ウォータージャグ)から汲んだ冷たい麦茶を飲む三人と、カバーを付ける手を休めない美月とで発展させていると、不意に空気を裂くような甲高い大声が聞こえて来て、八重樫を除く三人がはっと顔をそれぞれ声が聞こえた方に向けた。八重樫は眉をひそめただけだった。

「あれ副住職の声。高いんだ」

「ああ、そうなんだ」

美月はうなずいた。庫裡か今いる部屋のどちらかにいることが多い美月はとにかく、寺の敷地内を歩き回っている坊坂や藤沢さえ(いま)だ遭遇したことの無い副住職は、もはや会えたら幸運を呼び込む稀少な存在なのでは、とさえ思えて来ていたが、考えを改めさせられた。この大声で誰かを怒鳴っている様子では、会えない方が幸せかもしれない。内容までは分からないが、誰かが二三言喋るのがやっとというほどの間が空き、副住職の声がその十倍ほど長い時間、響いてくる。それが数度繰り返された後、無言で耳を澄ませる様子だった八重樫が、柵をその場に置くと、本堂の方へ足早に向かった。残された三人はしばらく無言で、不安げな表情でお互いの顔を見やっていた。

「副住職の会話の相手、八重樫のお母さんじゃないか?」

残っていた麦茶を飲み干してから、坊坂が誰にと言うわけでもなく、問い掛けた。藤沢も同じ考えらしく、軽くうなずいた。美月は先程匡子が電話に出ているのを知っているので、半信半疑で、首を傾げた。坊坂も明確な同意や反論を欲しがっていたわけでもないので、副住職の会話の相手についての詮索はそこで終わった。柵を直すのであれば、どれくらい時間が必要か、などの話しているうちに、程なくして八重樫は戻って来た。だが表情が明らかに不機嫌で、何かあったのだと一目で分かった。

「須賀、悪いけど、明日は庫裡を手伝ってくれない?」

何があったと友人たちから問われる前に、八重樫は美月に依頼した。

「つまり炊事の手伝い、ってことだよね。いいよ。でも何で急に?」

「明日、母さんが出掛けるから。基本俺がやるけど、一人だとどうしても遅いんだ」

「出掛ける?」

聞き返したのは坊坂だったが、藤沢も美月も同じ疑問を持った。買い出しは今日行ったばかりである。庫裡のこと全般を一人で(にな)っている匡子が、そうそう毎日出歩くことが不思議に思えたのだ。八重樫は不機嫌な表情のまま、吐き捨てるように言った。

「俺らが病院行ってる間に、副住職が仕出し屋さんと電話で話したらしい。まけろって」

美月たちは無言のまま、顔を見合わせた。

「嫌になる。安くならないなら、別の仕出し屋に頼むとか言ったらしくて、大将頭に来ちゃってる。女将さんが母さんに、確認というか、本当にキャンセルしていいのかって電話くれて、母さんが副住職に問いただして、さっきの大声になったんだけど」

八重樫は一層不機嫌になった。

「どこにあるんだよ別の店。今時、完全な精進やってくれるとこなんて、大都会でさえ稀少だっての。普通に飲み食いするのにも困る田舎で、道端に転がってるかっての」

一同はかける言葉が見つからず、無言のままだった。八重樫は溜め息を()いた。

「まあ、そういうわけで、母さんが取りなしというか、頭下げに行かなきゃならなくなったから、頼む」

「分かった。頑張る」

一通りの炊事は出来るものの、得意というわけでもない美月だったが、出来るだけのことはしようと決心した。


翌日、当初の縁の下の掃除から、ひたすら大量に野菜を切ることに、美月の仕事は変わった。匡子は昨夜から何度も済まなさそうに明日の不在を詫び、特に美月には、美月がスーパーで買うか迷っていたアイスを買ってくることを約束した。美月はむしろ、アイスコーナーの周りをぐるぐる回っていた姿を見られていたと知って、内心で赤面した。庫裡での仕事はそれほど問題はなかった。もともと寺に住まいしていた間、匡子の手伝いをずっとしていた八重樫が、段取りは全て把握していることもあり、美月はその指示に従って動いていれば良かった。最後の方は包丁を持つ手の手首が痛くなってきたが、なんとか完遂した。

昼過ぎには帰ってくるという話しだった匡子だが、昼頃電話を寄越して予定の変更が伝えられ、帰着は夕方だった。疲れた様子で、喜怒哀楽の見えない表情で淡々とキャンセルのキャンセルは受け入れられたと息子に報告をしていた。既に副住職たちに出す膳は盛りつけるだけになっていたので、そのまま休んでもらい、美月は八重樫と自分たちの分の夕食の準備に取りかかった。庫裡の椅子に座り込んだ匡子は、美月には申し訳なさそうだったが、八重樫の働く姿は、嬉しそうに見ていた。

その匡子が不意に顔を上げた。一瞬間を置いてざわめきと、それに混じった副住職の甲高い声が耳に届き、美月と八重樫も手を止めた。声に混じり、廊下を早足で歩く足音が聞こえてきた。八重樫がざわめきの元と(おぼ)しき本堂の方に向かおうとする素振りを見せたが、それより早く、庫裡の開け放たれている勝手口に、坊坂と藤沢が姿を見せた。縁の下にもぐっていた二人は砂埃にまみれていて、藤沢は更に蜘蛛の巣も引っ掛けていた。

「何かあったの?」

美月が尋ねると、当惑げに坊坂が答えた。

「大僧正が来られたそうだ」

『はい?』

八重樫親子の声が唱和した。

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