プロローグ
突然だが、ニセクロハツというキノコを知っているだろうか。
和名が偽黒初。
学名はRussula subnigricans Hongo。
分類は担子菌門ベニタケ目、ベニタケ科、ベニタケ属。
夏から秋にかけてのキノコ。
大きさとしては中型から大型。
東海や関西で多く見つかっている。
シイやカシなどの広葉樹林の地上が発生場所だ。
外見的な特徴としては、大型の傘は暗灰褐色で表面はややスエード状。ひだは幅広く、色はクリーム色。柄は下方に細くなっていき、傘と同色かやや淡い。
そして、一番大切なこと。
猛毒。
強毒性の種が比較的少ないベニタケ科菌の中で飛び抜けて毒性が強い。誤飲食が多いにもかかわらず二〇〇九年まで毒成分が判明せず、「謎の毒キノコ」と呼ばれていた。その毒は骨格筋を溶かし、その溶解物が致命的な影響を与えるという二段階の作用を示す。比較的短時間で胃腸系の症状が現れ、その後背中の痛みや血尿を経て心臓衰弱に至る。
殺しの技術には自信あり。
まさしくキノコ娘にして、殺し屋である俺を象徴する一品だ。
キノコ娘とは人とは少し違う、キノコの特徴を持つ存在のことだ。
あらかじめ断っておくと、大部分の連中は平和に呑気に生きている。山の中で生活する者もいれば、人間と仲良く暮らしている者もいる。その辺りは多種多様だ。
それが、俺の場合はニセクロハツの特性を活かして因果な商売を営んでいるというわけだった。
自慢ではないが、ルッスラ・S・ニグリカと言えば、業界でもそれなりに有名な暗器使いだと自負している。俺の手にかかれば、ターゲットは死因不明のままという事態が実に多い。死因が分からないままでは、ろくに捜査も進まず。そもそも事件にすらならないということすら多々ある。この能力によって、色々と重宝されているというわけだ。
何事も適材適所。
平和に暮らすのが似合う者もいれば、似合わない者もいる。少なくとも、俺は自分の生き方がそう嫌いではない。せっかく毒を持って生まれたからには、せいぜい有効活用しなくては宝の持ち腐れだろう。
ただ、最近問題があるとすればだ。
「……今日日、ホンマに仕事があらへん」
塒としている安宿のベッドの上で、思わず関西弁全開でぼやいてしまうほど暇だというだろうか。こんなところで、自分が関西関係者なのだと改めて自覚する。
何せ不規則かつ不定期な稼業だ。仕方ないと言えば仕方ないと言える。忙しいときは忙しいが、暇なときは本当に暇なのだ。葬儀屋と殺し屋が暇なのは良い事なのだろうが、こちらとしては退屈極まりない。
ゴロゴロして過ごすのにも限界がある。
退屈で退屈で、このまま永眠してしまいそう。
退屈はキノコ娘を殺すのだろうか。そうなると、退屈は俺の商売敵となるわけか。なかなか手強そうな相手だ。あまり勝てる気がしない。出来ればお相手はしたくないものだ。
うん、是非ご遠慮したい。
これ以上、退屈氏と手を取り合っているのは肉体的にも精神的にも健全ではない。
まあ、いつまでも無益に愚痴っていても始まらないのは確かだろう。
こういった長い谷間の時間を、如何に埋めていくかもこの商売には大切なことだ。オンオフをしっかりと使い分け、オフのときにあっても訓練と緊張感を絶やさない。いつ仕事の依頼があっても良いように、常に万全の状態をキープするのが実は一番難しい作業だ。
「はあ。日課のイメージトレーニングにでも行くか」
欠伸を噛み殺して、のろのろと起き上がる。
腕利きを自認している身としては、ちょっと他人には見せられない姿だ。何事も信頼を得るためには、見た目というものも重要になってくる。それは人間だろうが、キノコ娘だろうが変わらない。身嗜みを整えるためにワンルームの部屋に備え付けられた姿見の前に立つ。
俺のことを、強烈な光を放つ赤い目で睨む女がそこにはいた。
髪の色は黒い褐色で髪の裏側はクリーム色。裏側の髪質が妙に荒いのが悩み。全体的な服装はグレーで統一。あくまでも黒ではないのが個人的なこだわり。タキシードはパンツの方が淡い色味で、表面が傷んで一部白っぽくなっている。ちなみに身に付けている衣服はすべて裏地にも模様が施されている。それらに皺や汚れがないか、よく確認してからネクタイを結んで上着のボタンを留める。
黒縁の眼鏡も、しっかりとかけ直す。
最後にお気に入りの、ニセクロハツの外面を引っくり返したようなデザインの帽子を被れば完成だ。
テーマはインテリ風の男装の麗人。少しでも、そういう風に他人に印象付けることが出来るなら、こちらとしては合格点だ。侮られるのは得策ではない。
景気づけに鏡の中から睨んでくる相手を、より強烈に凝視してやった。
数秒ながら、息の詰まる攻防戦。
どちらもお互いに譲らず。決して目を逸らすことも、怯んだ色も見せることも、ましてや吹き出すこともないのが少々残念だ。
睨めっこならば、堂々のドロー。
勝負は次に持ち越すことにする。忘れ物がないかチェックして、部屋の扉に手を掛けた。安ホテルの廊下を音を立てないように気配を消して歩き、ロビー受付の従業員に黙って会釈しながら外へと出る。
高く昇った太陽の光が眩しい。
時刻は既に昼過ぎになりつつある。今日は穏やかな天候の一日のようだ。
これは絶好のイメージトレーニング日和と言えよう。もっとも、俺は雨の日だろうが雪の日だろうが、この日課は欠かさないようにしている。これを毎日義務のように行うことで、己の鋭さを保ち続けていると信じているからだ。
だからこそ、俺はどんな日であろうとこうして足を進める。
ルッスラ・S・ニグリカのイメージトレーニング。
それは、他のキノコ娘をターゲットに見立てて観察することに他ならない。