第一話②
「…………」
五鈴篝は現在進行形で自分の目を疑っていた。その程度と言ったら、数か月前に行った視力検査では両目ともに一・五あったはずだと言うのに、いつの間にかがくりと視力が下がってしまったのではないかと本気で疑ってしまったほどだ。
見渡せば、白色の石壁と真ん中に珍妙な模様が描かれた真っ赤な布きれ。そして、ロココ調の洗礼を受けたらしい燭台。
「どこ、ここ?」
篝は呆然と呟く。木から落下したのち目を覚ますと、そこは見知らぬ建物の中だったのだ。おそらく相当な間抜け面を大衆に晒しているはずだが、近くに鏡がない今、本人にそれを確かめる術はない。
困惑しつつも立ち上がる篝。ふらふらとおぼつかない足取りで歩き、近くにあった窓から外を望んでみる。
がつんと。
何か凶悪な鈍器のようなものでどつかれたような衝撃が、篝を襲った。
「……勘弁してくれ」
そこには広大な大地が広がっていた。ただ、砂漠のように殺風景なものではなく。青々と茂る芝生。湖に佇む少女のように美しい庭園。その中心にそびえたつ噴水では、四人の女神が持つ白濁色の壺から清涼な水が供給されている。
もう一度、篝は建物内に意識を戻した。
「まるで城だな、これは」
テレビの観光番組で見たヨーロッパの城みたいな内装だなと思う。やや古くさい飾物とかが、どうにもそれっぽい。広大な薔薇庭園とかも、篝の薄っぺらいイメージに合致している。
真実はともあれ、ここが日本ではないということだけは確かだと思われた。
ただ、ここが現実なのかどうかは不確かなままである。
「……いひゃい」
とりあえず、これは夢である、という推測のもと篝は行動を起こしたが、どうやら不正解らしかった。頬っぺたをつねってみたが、普通に痛い。
だが、それならここは一体なんなのだろう。
篝はここに至った直前のことを思い出す。
まず木から落ちた。そうしたら途中で気絶した。目が覚めた。ここにいた。
荷物は……ポケットの中にドングリが三つあっただけ。他のものは、木登りをする際、木の根本に置いてきてしまった。
「……流石にこれだけじゃきついよな」
考えていても仕方がないと思い、篝は別の行動に移ることにした。ヒントが少ないのならば、見つければいい。
探索する以外の案は、篝には考えられなかった。
「とりあえず、下に降りれば出口はあるよなあ?」
挙動不審に周囲を観察しながら、篝は歩を進めた。その足取りは軽い。庭がしっかりと整えられていたことから、この建物には少なからず人がいることがわかったからだ。
誰か一人でも人間がいれば、ここがどこなのかを聞くことができる。上手くいけば、元の場所に帰る方法を教えてもらえるかもしれない。もし帰り道がわからなかったとしても、保護してもらえる可能性もある。
しかし、計画性もなく歩き回っても意味はない。だから篝は、人に見つけてもらえやすいように、開けた場所――外に出ることにしたのだった。
歩き始めて最初の曲がり角に差し掛かる。
「ん?」
「え?」
篝が角を曲がろうとしたとき、同じ瞬間に曲がろうとした人間がいたらしい。まさかそんな簡単に人と遭遇できると思っていなかった篝は、勢い余ってその人物にぶつかってしまった。
両者ともに勢いがあったのか、篝は後ろに倒れこんで尻餅をついてしまう。
相手のほうは微動だにしなかった。
「あ、すみません」
駅構内で知らない人と接触してしまった時のようなテンションで、篝は謝る。
「こちらこそ申し訳ない」
相手もほぼ反射的なものだったのだろう。手を差し出してくる。
篝はその手を借りて立ち上がった。そして、衝突した男の服装を見ると目を白黒させた。
有体にいって、彼は兵士だった。ちょっと汚れた胸当てと兜。手には細長い槍を握っている。彼を兵士と呼ばずして、誰を兵士と呼ぶのかというほど、彼は兵士らしい恰好をしていた。
「あー……」
しばらくの間、篝の肉体と思考が同時に停止する。兵士の男のほうも同様に、こちらの目を見たまま動きを止めていた。
しかし、このまま時間が止まり続けることはない。
最初に状況に気が付いたのは兵士のほうだった。握った手を強く握り直し、口を『い』の形に歪める。
その動作に、ようやく篝は反応した。やばいと思った。厳密に何が起こるのかはわからなかったが、本能がよくないことが起こることを告げていた。拘束された腕をしっちゃかめっちゃかに暴れさせる。
「侵入者だ――――っ!」
男が叫んだ。やっぱり! と篝は腕の動きを一層荒くした。
「は・な・せ!」
無理やり引きちぎるように拘束から逃れた篝は、兵士がいる方向とは逆に走り始めた。逃げなくてはいけない。
おそらく自分は、この建物にいてはならない存在だったのだ。
兵士の険しい顔は、それを物語っていた。
だけど、逃げてどうする? 篝には逃げるべき方向もわからない。いや、外に逃げるのが最善なのは承知している。しかし、そこへの行き方がわからない。
階段だ、階段を探せと、篝は不規則に角を曲がる。右。左。右。右。左。振り向くと、いつの間にか追手が増えていた。
仲間の警告に反応した兵隊たちなのだろう。重い鉄の防具をまとっているにも関わらず、彼らは篝とほとんど同じくらいのスピードで追いかけてくる。
思わず、不幸だ! なんて叫びたくなってしまう篝だったが、それでは自分の居場所を教えてしまうだけだと考え、自重した。
そのとき篝は、丁度曲がり角のない一本道に差し掛かった。同じ形をした扉や窓が、それぞれ規則的に並んでいる。もう一度背後を確認すると、一層人数の増えた兵隊たちが、死肉に群がるハイエナのような形相で追いかけてきていた。
というか、どれだけ兵隊いるんだよ、と篝は思う。もしかしたら、城で目覚めたときに周囲に誰もいなかったことほうが、奇跡だったのかもしれない。
「うう……泣きたい。誰か助けて」
篝は半泣き状態で走り続ける。助けてくれるなら誰でもいい。悪魔だっていい。どれだけ疲れても立ち止まるわけにいかない足を精一杯動かしながら、篝はそんなことを祈った。
しかし、勝利の女神は兵隊たちのほうに微笑んだ。
ここは一本道である。後ろからは敵。例えば、進行方向から新たな敵が現れたとしたら。
「絶体絶命!」
篝は急停止した。前後を交互に見る。
どうしようもなく行き止まりだった。兵士の壁が、ものすごい勢いで押し寄せてくる。
悪あがきとして、窓から外をのぞいてみる。もしかしたら、飛び降りれるかもしれない。
「……高い」
運動はそれなりに得意だが、しかし『それなり』以上ではない篝には、どうしようもなく無理そうな高度だった。先ほど上った木とは、比べるのもおこがましいくらいの差。落ちたら怪我では済まない。
すると篝は、もういっそ捕まればいいんじゃないか、という気になった。
「殺されるわけでもあるまいし……」
そうだ。自分は何もしていないのだ。殺される理由がない、と篝は微かな希望に縋り付く。しかし、唯一差し込んできた希望の光も、自分の目で現実を見ると一瞬で雲に隠れてしまった。
半ばあきらめた表情で、篝は呟く。
「いやあ、殺されそう」
ここは、人が普通に槍を持っているような場所である。そういうことが起こっても、何らおかしいことではないだろう。むしろ、死より恐ろしい目に合う、と言われたほうがしっくりくるように篝には感じられた。
こうなると、もう逃げるしかなかった。
どこに逃げるのさ? と心の中にいる天使が訊ねる。
妄想に、と心の中にいる悪魔が答える。
「――ツヴァイトゥレ」
篝は口の中で唱えた。自分以外には聞こえないほどの微かな音。
ツヴァイトゥレ。それは魔法の言葉だった。かつて戦士症候群に悩まされていた時期の、はかない思い出。
大地神ユグドラシルによって授けられた、大樹の魔法。
勿論、その言葉には効果がない。所詮、中学生が格好いいと思って作っただけの文字の羅列だ。だから、意味はないのだ。
しかし、篝の予想は裏切られた。
呪文を唱えた直後、上着のポケットが輝きだしたのである。厳密には、ポケットの中にあったドングリが強い光を発していた。
「なんだ、これ?」
その輝きを見て、兵士たちも突進を止めた。そして、口々に呟く。
「ま、魔術の光!? あいつ、魔術師だったのか!?」
「え、ま、魔術?」
「て、撤退だ――っ! 退け、退け――っ!」
一人の合図とともに、兵隊たちが一斉に後退を始めた。状況がつかめていない篝だけが、一人取り残されていく。その間も茶色のドングリは輝きを増し続けた。
篝は三つの木の実を掌に乗せる。とても熱い。光をまとったドングリは、出来立ての焼き栗のように強い熱を持っていた。
そして――。
その殻にひびが入ると、木の実はついに弾ける。
それは蔓だった。一本一本が相当の太さを持った三本の蔓が強く絡み合い、一つの樹木を作り出す。篝の掌から広がり、しかし篝のことだけは巧みに避けて、建物の廊下を飲み込んでいく。
気が付けば、建物の中に一つの樹海が生まれていた。
「…………どういうこと?」
唖然として立ち尽くす篝。
「なにこれ魔法?」
そう呟いてから、兵士の何人かが魔術と言っていたことを思い出す。魔術ねー、魔術ねー、とそれしか言葉を知らない子供のように何度も繰り返しながら考え事をすること数十秒。篝はある事実にたどり着いた。
「もしかしたら、ここ、異世界なんじゃない?」
最近はご無沙汰だったが、大学の友達経由で知った最近人気のウェブ小説のジャンル名を、篝は思い出していた。
異世界トリップ。
ぞくりと、心に刻まれた古傷が疼いた。