災いその二
今回は短いです。
「…姫」
通せんぼをいきなり、されたので、おもむろに顔をぶつけてしまった。
鼻や額が痛い。
あたしは目を開けてみた。
間近に見える薄い茶色の瞳。
二重のぱっちりとしてもいるその目があたしを捉えていた。 「まったく、君はどこへ行くつもりだ?そんな格好をして。一人で何をするつもりなんだ」
「…あんたには関係がないことよ。とにかく、どいて」
「そういうわけにはいかないよ。東三条邸へ行くつもりだね?」
黙って、歩き出そうとしたら、腕を掴まれた。
折れそうなくらいの力を入れられて、痛い、と小さく声をあげてしまった。
「だったら、悪いけど。僕も行くよ」
呆気に取られていると、引きずられるようにして、歩き出した。
部屋から、離れていくと、じきに、車宿りの場所にたどり着いた。
そのまま、友成はあたしを横抱きにする。
「たれかある。牛車を用意してくれ」
呼びかけると、さっと、従者が現れた。あたしを抱えたまま、階を下りる。
浅沓をはいている時になって、おろしてくれた。 従者が草履を用意してくれる。
それを履くと、牛車まで行った。
そのまま、簾を上げると、中に素早く乗り込む。
座って、膝に乗せられると、同時に牛車が動き出す。
お互い、無言のまま、内裏を出た。
しばらく、待ち続けたが。
あたしは我慢しきれずに言った。
「いつになったら、着くのよ。火急の時なのに」
唇を噛みながら、いらいらしていた。
「どうも、火事騒ぎで進みにくくなっているらしいな。外へ出よう」
友成はあたしのことを膝からおろすと、牛車を止めるように言った。
一人で出るのを見届けると、あたしは立ち上がり、物見を開けた。
自分から向かって、左側ー東方にもくもくと煙を上げながら、燃えさかる建物を見つけた。
紅や黄色の炎が踊るように天を目指す。父上や弟のことをふと、思い出した。
(こんなことしてる場合じゃない。早く行かないと!)
簾をからげて、急いで、外へ出た。
「…姫様!危ないですから、中にいてください」
そう、従者が言った。
後ろの方からだったので、履き物を乗せる台も何もない中、尻餅をつきながら、地面に着地した。
痛いのを我慢しながら、牛車の横で従者の乗っていた馬にまたがろうとする友成を見つけた。
「な、姫。どうして、外へ…」
驚いたのか、目を少し、見開いていた。あたしはおかまいなしに、走り出した。 燃えている東三条邸を必死で探しながら、逃げてくる人を捕まえた。
「ねえ!聞きたいことがあるの。あちらの燃えている邸は一体、どなたのものなの」
その人は二十六くらいの女で顔や手は土で汚れている。
「そんなの、はっきりわかるわけないだろう。ただ、駆けつけたお役人が東三条邸とか言ったのを小耳に挟んだくらいだよ」
淡紅の小袖を着ている女はそう答えた。 「そう。それでわかったわ、ありがとう」
あたしはにっこりと笑いながら、礼を言った。
「…それじゃあ、わたしは行くよ。巻き込まれたら、面倒だからね」
女は走って、どこかへ行ってしまった。
あたしも逆方向に進むと、風にあおられているのか、煙がこちらへやってくる。 袖を口元まで持ってきて、辺りを見回すと、ぱちぱちと音を立て、燃えさかる邸がそこにあった。
一瞬、目眩がするけれども、すぐに決心して飛び込んで行った。
「義隆、父上!どこにいるの」
ものすごい白と灰が混じった煙やあおる風に難儀しながらも、必死で父上や弟のことを探してみる。 目や鼻の奥がチリチリと痛む。
せき込みながらも、庭からまだ残っていた階を駆け上がりながら、簀子縁を見渡す。
誰もいない。
ぱたぱたと走る音が耳に入って、見ると、鈴鹿だった。
「…香子様!」
あたしを見つけて、こちらへとやってきた。
がらがらと天井が崩れる音がした。
あたしは鈴鹿を引っ張って、外へ出た。 炎が迫る中、鈴鹿は腰を抜かしてしまっていた。
無理矢理、引きずって、もう一度、階へ戻った。
そこから、下りて、燃えていない方角を探した。
ちょうど、門があったので、急いで行こうにも鈴鹿が怖じ気づいてしまって、動けなくなっていた。 こういう時、自分に力があれば、と思う。
そして、門が勢いよく、開けられると入ってきたのは馬に乗る友成の姿だった。 「姫、それに鈴鹿。大丈夫か!?」
急いで、馬から下りてきた。
走って、階まで来ると、土足で上がる。すると、鈴鹿をひょいと抱き上げる。
慎重に階をおりると、追いかけてきた従者に預けた。
あたしも同じようにして、友成についてゆく。
「待って、友成!」
彼にそう声をかけると、肩から首だけを動かして、こちらを見てくる。
すぐに、ほらと手を出される。
ぎゅっと、握り返した。
馬に友成が跨ると、後ろに乗せてもらった。
はっと、かけ声と共に、鐙で馬のわき腹を蹴ると、走り出したのであった。
牛車に鈴鹿を乗せて、後を追う従者。
二人で馬に乗るあたしたち。
とりあえず、太秦の別邸へ行ってくれるように頼んだ。
友成は洛南を目指していた。
桂川の土手沿いまで来ると、走らせていた馬の足が緩やかになった。
「太秦までは後、もう少しだ。鈴鹿の他にも助けたかったが、仕方ないな」
残念そうにいう。
確かに、その通りだ。
「父上と義隆も無事でいてくれたら、よいのだけど」
あたしは、友成の背中にしがみつきながら、言った。
返事はなかった。
「大夫様。後、もう少しで太秦に入ります」
わかったと返答をする。
左京大夫を務めているのに、馬術が得意な友成には何年経っても、驚かされる。 文官よりも武官の方が向いているかもしれない。
そう思った。
ゆっくりと進んでいくと、見慣れた邸が段々と近づいてきた。
太秦の別邸である。 門をくぐると、清久がやってきた。
「ああ、左京大夫様。よく、ご無事で。あの、後ろの女君は一体、どなたでしょうか?」
「そなたの仕える大納言様の姫だ。東三条邸の様子が気になるからといっておられたので、お連れしてきた」
「左様でございますか。あちらはかなり、ひどい状況だったでしょう」
そうだな、と友成は答える。
乗っていた馬から、先に下りる。
あたしも手伝ってもらいながら、同じようにおりた。
牛車の中から、鈴鹿が従者の清久にほぼ、抱えられるようにして出てきた。
がたがたと震えて、正体のない有様であった。
あたしは清久に声をかけた。
「鈴鹿を女房用のお局にまで、連れて行ってあげて。一人じゃ、歩けないと思うから」
「確かにそのようですね。荻乃殿や小夜殿が心配していましたから。無事だとわかれば、喜んでくれましょう」
穏やかな口調でそう言いながら、慎重に鈴鹿を局まで連れて行った。
あたしも後を追うように、中へと入った。
荻乃たちの様子を見るため、お局へと急いだ。
「…まあ、姫様!ご無事だったんですね」
鈴鹿さんも、と荻乃が言った。
隣にいた新入りの小夜が涙ぐんでいる。あたしはぽんと荻乃の肩を叩く。
「荻乃や小夜が無事でこちらこそ、ほっとしたわ。逃げ遅れた者たちもいたのでしょう?」
「はい。三人ほどの女房が逃げ遅れて…」
そうと頷くと、荻乃は悲しそうにつぶやいた。
「…讃岐さんと若葉に宰相さんが。下男も二人、童が一人と…」
それには聞いて、驚いた。
讃岐と宰相の君は父上づきの女房で、若葉は去年辺りにやってきた新入りの子だ。
讃岐は古参の者でよく気が付く所があった。
宰相の君は女らしい文字を書き、代筆役をよく任されていた。
あたしの代わりに公達への文の返事を書いてくれたことも何度かあった。
若葉はあたしよりも、一つ年上の十八歳だった。
おっとりとした性格だったけど、根は優しい子であった。
「義隆様はいち早くに火事に気づかれて。すぐに、逃げるようにおっしゃったのです。殿をまず逃がすようにお命じになられまして…」
その後、義隆は病の身を押して、宮中にいるあたしに使いをやり、父上の寝殿まで行って、無理矢理、庭へ出させたらしい。
侍達に命じて、消火に当たらせた。
検非違使もやってきて、東三条邸は大騒ぎになったという。 でも、父上や義隆が無事だったのを聞くことができて、よかったと思った。
「…殿は煙のせいで、御眼を痛めてしまわれて。まだ、医師や薬師によると、油断が許されないとか。義隆様はお疲れになられたんでしょうね。お熱が上がって、こちらに着いた途端に寝込んでしまわれました。うわ言で姫様や藤壷女御様のことをしきりに口にしておいでで…」
そのまま、荻乃は目尻に浮かんだ涙を袖で拭う。
小夜も泣いてはいないものの、顔色が悪い。
震えてもいるようだった。
「…若葉さんが私を庇ってくれて。おかげで、助かりましたけど…」
小夜はそのまま、泣いてしまった。
何でも、小夜が逃げる時、燃えた柱が倒れてきて、下敷きになりかけたという。若葉がどんと強く押して、代わりに、柱の下敷きになってしまい、どうすることもできなかった、らしい。
あたしも涙ぐみながら、その話をきいていた。
何にもできなかった自分が悔しい。
今はそう思う。
それでも、義隆たちやあたし付きの女房。
生きて他にも助かった人達の無事を今は喜ぼう。
そう思った。