第四章 災い
そうして、二日程経ってから、あたしは後宮の飛香舎へ戻ってきた。
「…東の君。勝手に後宮を出てしまって、心配したのですよ?」
女御様が睨みつけながら、そういう。
横の一段下辺りに侍従が控えていた。
「そうですわ、姫。あなたがご実家へお戻りになられた時、言伝一つだけで行かれたことです。どれほど、女御様が困っておられたか、おわかりなのでしょうね?」
侍従も最高潮に機嫌が悪い。
弟のことで頭が一杯だったせいだろうか。
「それはわかってます。あたしの行動のせいでこちらへ迷惑をおかけしたことは。でも、身内に急事が起きれば、帰りたくなるのは当たり前だと思うのですけど」
きっぱり言うと、侍従と女御様は呆気にとられた顔になった。
「…ですが。姫の行動は勝手すぎます!どうして、女御様に直接、暇乞いをなさらなかったのですか。私に文の一つでも預けてくださったら、すぐにでもお渡しをしましたのに…」
「だから!ちゃんと、女房には言伝をしたじゃない!どうして、そんなに怒るのよ、侍従は」
「姫が反省なさらないからです。少しは待っている側の気持ちを理解していただきたいものですね」
冷たい表情で言う侍従に珍しくもひるんでしまった。
(うわ。大分、怒っているわね)
内心、そう思った。女御様第一の侍従はあたしのことを許してくれないだろう。 これは、一緒に来られている叔母上にも怒られそう。
「…侍従。少し、言い過ぎですよ。静かになさい」
ゆるやかな声に振り向くと、噂をすれば何とやらで、三十を七つか八つくらい過ぎた女性が立っていた。
唐衣と裳をつけたその人は女御様に面差しが似ている。
「まあ、二条の御方様!」
その呼び方を聞いて、叔母上だということに気づいた。
「明子の叔母上!お久しぶりです」
「あら、香子殿ではないの。本当にお久しぶりね」
あたしは、嬉しくて、叔母上の元へ小走りで近づいた。
「…ほんに、大きくなられて。こうやって、お会いするのは二条の邸を出た時以来ね。元気そうで何よりですよ」
にこやかに笑いながら、叔母上はあたしの両手をしっかりと握ってきた。
「…お母様。お局で休まれていたのでは…」
「あら、女御様。折角、姪が来てくれたというのに。休んでなどいられませんよ。こうやってお会いできたのも、姉上が導いてくださったのかしらね」
握った両手から、伝わってくる温もり。懐かしくて、鼻の奥がつんと痛くなる。泣きそうになりながら、何とか、我慢した。
「あなたが後宮へ来られたと聞いたので、驚きましたわ。全く、大臣も勝手なことを。きつく、注意をしておかくては」
そんな強気なことを言っても、顔は笑っている。
侍従も女御様も苦笑している。
もともと、勝ち気な性分の方だからな、叔母上は。
「御方様。姫が実家へ帰ってしまわれていたのです。それで、女御様と忠告申し上げていたのですけれど」
それを聞いても、叔母上はほほと高らかに笑い声をあげた。 「まあ、そのようなことがあったとはね。でも、私も聞き及んでいますよ。弟の義隆殿が病で臥せっておられるとか。それは心配になって、当然でしょう」
「確かに、お母様の言う通りですけど。それでも、東の君。せめて、侍従がいったように、文であってもよいですから。何かあった時には知らせてください。わかりましたか?」
「はい。今後、気をつけます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
あたしが珍しくも、礼儀正しく謝ると、叔母上と女御様は驚いて、目を大きく見開いた。
「ずいぶんと、大人らしくなられたこと。お転婆でなかなか言うことをきいてくれなかった子供の頃とは見違えるようね」
「本当に。厳しくしていた侍従のおかげでしょうか」
「…でも、相変わらずな所もあるようね。香子殿、もうよくおわかりだろうけど、無茶はしないように。お願いしますよ」
はい、と答えつつも、あたしは内心、あまり面白くなかった。
叔母上や侍従、女御様に一斉に怒られて、頭を下げるしかないからだ。
これが父上だったら、きっと、大喧嘩になっていただろう。 それでも、深ヶと手をついた。
「わかりました。女御様にご迷惑をかけないようにいたします」
そういうと、叔母上は良いのよ、と言って、あたしの頭を撫でたのであった。
局に帰ると、戸の前で殿方が一人、立っていた。
特徴のある二重の目を見て、友成だということがわかった。 「友成!どうしたの、こんなところで…」
「いや。君の様子が気になって、こうやって、来たんだ」
ぶっきらぼうに言いながらも、顔は赤い。
あたしはにこやかに笑いながらも、友成の腕をつかんだ。
「まあ、こんな外で立ち話も何だし。入りましょ」
すると、一瞬、ためらっていたが、意を決したようで、中へと入ってきた。
引き戸を閉めると、友成はあたしの用意した御座に座った。
「姫は知っているだろうけど。義隆が風邪をひいて、倒れたんだって?容態はどうなんだい」
「…大分、良くなったらしいわよ。熱も下がって、食事も取るようにもなったらしいし」
「そうか。それはよかった。心労からくるものだと聞いていたから、気になって、仕方なかったんだ。まさか、大納言様に直接尋ねるわけにもいかないし。こういうことは姫にきくのが手っ取り早いと思ってね」
「だったら、義隆の側近に惟政ていう男がいるから。彼にきけばいいじゃない」
「…いや、その。惟政にきくのが一番良いのはわかっているよ。けど、僕は苦手なんだ」
きっぱりと言い切ってみせた。
友成はふと、腕を伸ばして、手を握ってきた。
「この間、送った文の返事がまだ来ないんだ。どうしてかな?」
あたしはそれを聞いて、固まった。
実は兄君の中将にも返歌を送っていないのだ。
うっかりしていた。ああ、弟のことに気を取られていたから。
仕方なく、口頭で伝えた。
「うばたまの闇夜のごとき夢なれば憂かりけるらし定めもなくに…」
意味は〈真っ暗闇の夜のような夢であれば、苦しみ、悩みもあるに違いない。決めることもできずにいる〉というもの。 〈兄君とあなたとの間で今もどうしたらいいのか、悩んでいます。わかってる?〉という裏の本音もこめて、よんでみた。
「…わかったよ。無理強いするつもりはなかったんだけど」
ぎゅっと、握る手の力が強まった。
じっと、見つめてくる瞳につい、顔をそらす。
そのまま、ぐいっと引っ張られて、友成の胸の辺りにしたたか、鼻をぶつけた。痛かったが、友成が離してくれそうにない。
すっぽりと腕の中に収まる自分の体にさらに、驚いた。
子供の頃だったら、あたしの方が背が高く、体格も大きかった。
それが今となっては逆転している。
心の臓の規則正しい音が聞こえてきて、顔が熱くなる。
「兄上に姫を取られたくない。だから、僕は…」
後は小声になってしまう。
どうしても、焦ってしまうのだと言った。
そのまま、友成の顔が近づいてきて、口元に柔らかな物が当てられる感触がした。
接吻をされたのだと、気が付いたのはそれが離れた後だった。
「…なっ。友成!」
慌てて、離れようとするけど。
よけいに、抱きしめる力が強くなって、それもできない。
「姫。君のことが好きだ。どうか、今だけは…」
一人で突っ走っていて、あたしの声は聞こえていないらしい。
どうして、こう、せっぱ詰まった感じなんだろう、この人は。
他の人に見られたら、たまったもんじゃない。
あたしだって、応えた方が良いのか。
否といった方がよいのか。
考え込んでしまう。まるで、風に揺られる草のように。
「友成。あたしね、まだ、兄君にしたらいいのか、あんたにした方がいいのか、迷っているの。だから…」
すると、友成はふうとため息をつく。
「まだ、兄上のことが気になるんだね。でも、それは嫌なんだ。わかるよね?」
あたしは小さく、うなずいた。
もう、こうなりゃ、腹をくくるか。
「わかったわ。あんたに決めた。結婚する人を」
そういうと、友成は嬉しそうに笑った。 「…やっと、はっきりした返事をもらえた。橘の君も良いだろうけど、僕だって、姫のことを想っていたんだ。わかってくれて、一安心といったところかな」
と、言ってきた。
その後、友成に橘の君が兄の中将であったことを簡単に説明をした。
ひどく驚いていたが、友成は肩をすくませてみただけだった。
「…兄上が言っていたよ。大納言家の姫はお転婆だってね。僕が義隆と一緒に遊んだら、その翌日に私も行くと言い張って。喧嘩になったことがあったよ」
苦笑しながら、友成はいう。
まさか、あたしに会いに行くか行かないかで喧嘩になっていたとは。
ちょっと、複雑である。
中将に良い相手が現れることを祈ろう。ふと、そう思った。
そんな時だった。
「…東の君様!大変でございます」
そう大声を上げながら、駆け寄ってきたのは高倉侍従であった。
「どうしたの、そんなに慌てて。何かあったの?」
友成から離れると、侍従に問いかけた。顔色は真っ青で、息を荒げており、いつになく、慌てている。
簀子縁を走るなど、普段の侍従では信じられないものであった。
「…東三条が火事だそうで。たった今、報告が!」
あたしはそれを聞いた途端、目の前が真っ暗になった。
そのまま、侍従や友成を置いて、局を出た。
裳や長い裾のせいでこけそうになりながらも、走り出す。
「…香子姫!」
すぐ後ろには、友成が追いついてきていた。
肩を掴まれて、止められる。
「一体、何が起きたというんだ?火事というのは…」
「東三条、うちが火事になったのよ!ぐずぐずしている暇はないわ。すぐにでも行かなくちゃ」
また、走りだそうとしたら、背後から腕を差し入れて、羽交い締めにされる。
「ちょっと、放してよ!家が火事になったっていうのに、何で止めるの」
「危ないからに決まってるじゃないか!まずは女御様に報告を…」
「そんな暇はないわ!だから、放して」
あたしたちが一悶着起こしている間に侍従が追いついたのか、こちらまでやってきた。
あたしはとにかく、じたばたして、暴れてみせた。
けれど、そうするごとに彼の拘束する力は強くなっていく。 「東の君!」
侍従が声をかけてくる。
友成はそれに気を取られて、腕の力がゆるんだ。
その隙をついて、あたしはするりと抜けだし、走った。
弟の病の知らせを聞いてから、たった三日しか経ってない。その間に次から次へと事が起きる。
仏があたしを試そうとしているのだろうか。
どうも、そんな気がしてならなかった。
部屋に戻ろうとすると、高倉侍従も後を追ってくる。
あたしは、たどり着くと、手早く、唐衣と裳を脱ぎ、下に着ていた衣も全部、肩からすとんとおろした。
小袖と単、袴だけになった。
袴の裾をたくしあげ、紐で括る。
髪も束ねると、衣の上半身の背中側に入れて、まとめた。
誰の助けも得ず、一人で身支度を整えると、引き戸を開けて、外へ出た。
「…姫様、何て格好を…」
簀子縁に侍従がいて、呆れたような顔をされた。
「今はそんなこといってる場合じゃないでしょ。あたしは東三条の様子を見てくるから、あんたは女御様への言伝、やっておいて」
そういうと、あたしはきびすを返した。 「香子様!」
侍従の呼ぶ声も無視して、走り出したのであった。