橘その二
この回で友成が登場します。
「…その姫のことをどう呼んでいらしたのですか?」
あたしは、顔を隠しながら、震える声で尋ねた。
「ただ、単に姫と呼んでいましたよ。相手もそれでいい、というのでね。その姫も私のことを橘の君と呼んでいました。それでは、恥ずかしいと姫に何度も他の名で呼んでほしいと頼んだのだが」
あたしは自分の顔が段々、青ざめていくのがわかった。
中将もあたしの様子がおかしいのがわかったのか、黙った。 何で、中将が知っているの?
全部、見てきたかのように話す、この人は誰なの。
一体、何がどうなってるんだろう。
「わたくし、その姫は香子姫ではないのか、と思います。お付きの女房から聞いたことがあるんです」
「何をです?」
中将はさらに、訝しげに眉を曇らせる。 「香子姫の初恋の君は橘の君だというのだと。そういう風に呼んでいたと」
あたしはきっぱりと言った。
「それは、本当ですか、少将の君。では、あの姫は香子姫だとでも?」
「たぶん。あたしも本当の所はわかりませんけれど。何となく、そうじゃないかって。思ったことを口にしただけですけどね」
「そうか。香子姫がもしかすると、あの姫かもしれないのか。少し、信じられないが」
中将はため息をつきながら、言った。
こっちだって、本当のこと、ぽろっと言ってしまいそうで、必死だったのよ。
でも、中将は黙ってしまった。
何かを考え込んでいる。
「あの中将様、宴には出ないのですか?わたくし、つい、長話をしてしまって。ごめんなさい」
「ああ、そうだったね。いや、思いもかけない話を聞いたものだから。そうだ、あなたにはこんな話につき合ってくれたから、お礼をしたいのですが」
「え、わたくしに?」
「ええ。あの姫のことは前から、いろいろと調べたりはしたのですよ。でも、手がかりはつかめずじまいでね。それにしても、あの姫につながる手がかりが見つかっただけ、良かったかもしれない。今日のあなたの話は運の巡り合わせとしか思えない」
中将は嬉しそうにいった。
でもな、お礼といわれたって。
「あの。大したことはしてないのに、お礼なんていいです。あたしは自分が知っていることを申し上げただけですから。そんな、気を使わないでください。こんなこと、他の人たちに知られたら。噂の的になってしまいます」
顔を赤らめつつ、慌てて言った。
すると、中将はくすりと笑った。
「あなたの方がもしかすると、あの姫ではないかと思えますよ。でも、そうだな。正直すぎるのも、控えた方がいい。後で裏目に出る時がありますから」
さりげなく、注意された。
中将って、父上より、小姑根性あるんじゃないか。
あたしはふと、そう思った。
そんな時だった。
「おや。このような所で何をなさっているのかと、思いきや。真っ昼間から、女房を口説いているとは」聞き覚えのある声がして、振り向けば、弟がいた。
「…口説こうなどとは無粋な。左近少将。私はこの者と話をしていただけだ。よけいなことは言わないでほしい」
中将は苦々しげな表情をしながら、そう答えた。
ぱちんと蝙蝠を閉じると、それをあたしに手渡した。
「今度は夜に訪ねるよ。少将の君、それではね」
立ち上がると、宰相中将は静かに去っていった。
ただ、荷葉の香りを残して。
あたしは、見送りながら、呆然としていた。
「姉上。どうして、あなたがこんな端近にいるんだい?」
左近少将こと弟の義隆はそう言ってみせると、むっと、こちらを睨む。
あたしは気まずいながらも、答えた。
「宰相中将とは本当に、偶然、出会っただけよ。暇だったから、話し相手になってもらってたの」
「だけど、誰かに顔を見られたりしたら、どうするんだ。とにかく、局の中へ入った方が良い」
仕方ないので、部屋の中へと入ったのであった。
「あれ?何だろう、この匂い。とても、かぐわしい。荷葉に後、ほんの少し。これは沈も混じっているね」
さすがというべきか。
義隆はほのかに香る匂いを言い当てていた。
そうだ、あたしの持っているこの蝙蝠が放つこの香りだ。
でも、やっぱり、まずいよね。
宰相中将と話をしていたなんて。
侍従や父上はあたしがこういう姫らしくないことをするのは嫌がるのだ。
「でも、沈の混じった香なんて、この藤壷には焚きしめている人なんていないし。姉上は好きではないし」
そう言って、ふっと、思い出す顔つきになった。
義隆はすぐに気づいたようで、あたしの方を向いた。
「…この香はもしや、あの宰相中将殿のものでは。あの方はいつも、この薫りを選んでおられる。特に、夏の季節にはね」
「よく、知っているのね。感心するわ」
「でも、姉上。この薫りがするということはどういうことだろうね。…あ、その蝙蝠!」
義隆はあたしの持っている蝙蝠を見て、叫んだ。
「え。どうかしたの?」
「…姉上。悪いけど、その扇、見せてもらえないかな」
弟がそういってきたので、言われるがままに蝙蝠を渡した。 「これは。どなたから、もらったんだい?」「えっと。たまたま、そこらへんに落ちているのを拾ったのよ」
「いいや、こんな扇を落とすような人は宮廷にはいないよ。ましてや、こんな後宮で。姉上、これ、どなたかと交換したんじゃない?」
実の姉だというのに、弟に叱られている。
義隆は意外に怒らせると、こわいのだ。ここは素直に言うしかない。
「わかった。言うわよ。あのね、この蝙蝠はさっきの中将から、もらったのよ」
他に人がいても、困る。
なので、小声で言った。
その後、さっきの経緯を説明した。
義隆はよけいに、眉を寄せ、不機嫌になった。
「…あの方はかなりの遊び人で有名だよ?浮気性だって、女官から、話を聞いたことがある」
苦々しげにいってくることを聞いて、あたしは呆気にとられた。
「その、向こうはあたしを気に入ったみたいで。何か、昔の話につきあっていたら、お礼に、てもらったのよ」
「でも、あの方は『夜に訪ねる』と言っていただろう?源氏の物語の朧月夜の君みたいに、扇を渡していった。これはどう考えても、恋の呼びかけとしか考えられないね」
父上から、あれほど、きつく見張っていろ、と命じられていたのにと弟はぼやいた。
何でも、藤壷女御様の父君である右大臣の伯父上があたしを東宮様の妃にと考えているらしいのだ。父上こと藤大納言はその右大臣の腹違いの異母弟である。
弟の義隆が簡単に話してくれたことによると、父上を通して、甥にあたる彼にお目付け役を頼んだらしい。
「女御様は、伯父上に言われたんだって。『姪の香子を東宮妃にしたい』と。礼儀作法を学ぶためと称して、姉上のことを飛香舎に入らせたんだ。よけいな虫がくっつかないように、僕や従兄である頭中将に見張り役を頼んでね」
そう淡々というと、義隆はふうとため息をついた。
伯父上があたしを東宮様のお妃にね。
そんなこと、父上が聞いたら、即お断りというだろう。
『うちの娘はそんなの向いてない!他を当たってください』
とか、言うはずだ。 伯父上もなかなか、考えたわね。
入内しておられて、今上の寵愛深い藤壷女御様の名前を出されたら、父上は文句を言えない。
それに義隆にまで、働きかけたのだから、相当、本気のようだ。
「…だから、いくら、声をかけられたって、無視することだね。他の殿上人から、文をもらっても、侍従や藤壷の女房に渡すこと。僕でもいい。断りの返事をうまく書いて、出しておくから」
それが宰相中将殿であってもね、と義隆は付け加えた。
「じゃあ、その蝙蝠は僕から、中将殿に渡しておくから」
仕方なく、もらった扇を義隆に渡した。
夜になり、約束通り、中将は来るはずだった。
けれど、彼から来たのは、文が一通だけだった。
〈朝顔のつるにしたたる白露の消えぬ間にやはかなきものを〉
朝顔の花が文箱の中に添えて、入れてあった。
意味としては、「朝顔の花のつるには露がしたたっている。それは消えない間もはかないものだ」というのになる。
裏の解釈でいうと、 「せっかく、あなたと出会えたのに、すぐ別れることになってしまった。短いものですね、時というのは」とも読める。
ああ、伯父上のせいで、せっかくの出会いがおじゃんになってしまった。
どうして、こうもうまくいかないのだろう。
あたしは地団駄を踏みたくなるくらい、悔しくなった。
何が、(はかなきものを)よ。
あたしはまだ、生きてるわよ!
あの世にいってないのに、人のことを過去の亡霊扱いしないでほしいもんだわ。つい、中将の文に八つ当たりをしてしまった。
けど、気持ちが落ち着いてくると、宰相中将のことを義隆に訊くのを忘れていたのに、思い当たった。
仕方ないので、まだ起きていた女房に義隆がいるかどうか、訊いてみた。
ちなみに、隣の部屋にいた女房で名を清内侍という。
「…はあ。左近少将様でしたら、もうお帰りになりましたよ」
「え?帰っちゃったの。まだ、そんなに遅くないのに」
「何でも、用事ができたとかで。私が聞いたのはそれくらいですけど」
清内侍に礼を言った後、あたしは自分の局に戻った。
まさか、帰って行ってしまっていたとは。
たく、何で、こんな時に限って、ついてないのかしら。
仕方なく、塗籠に入って、休んだのだった。
「…姫。香子姫」
聞き覚えのある声がする。
ふと、目を覚ますと、誰かがそこにいた。
「…目が覚めたようだね。今日の昼間、義隆が兄上と君が逢い引きをしているようだという風に言ってきて。急いで来たんだよ」
ほうと、その人はため息をつく。
「寄りてこそ、それかとも見め、たそがれに…」
低い落ち着いた声で歌を呼びかけてきた。
反射的に下の句を言っていた。
「ほのぼの見つる、花の夕顔…」
ふわりと体に何かが巻き付く。
それが人の腕だとわかったのは、抱きしめられた後だった。 〈近づいて、私の正体を確かめてはどうですか〉という意味の歌。
それを指しているのは何なのか、考えようとした。
この声は確かに、知っている人のものだ。
けれど、あたしが離れようとすると、さらに強い力で引き寄せられた。
「…ずっと、君のことを想っていた。だから、今だけ…」
熱がこもった声。
髪を撫でる手。何より、この薫衣香。
控えめで渋みのある秋の侍従に似たかおりは弟の友人がよく焚きしめている。
あたしはそれを思い出した。
「友、成?もしかして、友成なの?」
問いかけると、答えの代わりに頬を撫でられた。
「やっと、気づいてくれたね。子供の頃から、君は勘が良かったけど。僕だとわからなかったら、どうしようかと思ったよ」
よかった、と呟く友成に、さらにあたしは驚いた。
まさか、彼がこんなことをするとは。
よっぽど、慌てて、来たらしい。
「友成だったのね。あたし、てっきり、宰相中将がまたやってきたのか、と思ったわ」
「…宰相中将は僕のすぐ上の兄だよ。腹違いの兄弟なんだ」
そう言われて、あたしは開いた口がふさがらなかった。
あの中将と友成が兄弟って。
嘘でしょう、いくら何でも。
確か、友成の実家は兵部卿宮家。
彼はそこの第二子、次男だったはずだ。ということは、兵部卿宮様の長子が中将ということになる。 「中将の兄上のことだったら、気をつけた方がいいよ。女に目がなくって、あきたら、すぐ他へと移る所があるから。おかげで泣かされる女人が多いんだ」
とにかく、間に合ったよと友成はいうのであった。




