第二章 橘
宰相中将がこの話で初登場になります。
ふと、目が覚めた。辺りには、誰もいない。
それも当然というものだった。
眠い目をこすりながら、襖障子を引き開けた。
局に出ると、日の光が射し込んでて、明るい。
午の刻ぐらいかな。
よく寝たから、頭が軽い。
あくびをしながら、座った。
けど、ふと、手元がおかしいなと下を向く。
そう、扇が無かったのだ。
すっかり、忘れていた。
さっき、座ったばかりで、面倒くさかったけど、探すことにした。
うろうろと局中を歩き回る。
扇がなかったら、どうしようもない。
女御様も今は宴の真っ最中で、御前に上がるのもしづらいしな。
あたしは小部屋の方も探してみた。
「おかしいな。どこ行ったんだろ?もしかして、局の外で落としちゃったのかな」
独り言でぶつぶつ、呟いていると、手にこつんっと当たるものがあった。
取ってみると、扇だった。
やっと、見つかった。
ひとまず、ほっとした。
扇を閉じて、懐に入れる。
几帳の端にかけておいた唐衣を着た。
とりあえず、これで良いかな。
局を出て、簀子へと下りた。
扇の代わりに、袖で顔を隠しながら、髪を撫でつけて、はねていないか、確かめる。
この間、衣装の重みが腕にくる。
すぐに、直して、そろそろと歩き始めた。
まもなくして、ふわりと良い薫りが鼻をかすめた。
その薫りを一瞬で、荷葉の香だな、とぴんときた。他にちょっと、かぐわしさがあって、微妙な配合がされているのだろう。
誰か、そこにいるのかな。
あたしは気になって、足音を立てないように注意しながら、近づいた。
一歩、二歩と近づいて、側にあった柱のかげに隠れて、目をこらしてみた。
目をこらした先にいたのは、一人の殿上人だった。
見た感じでは、まだ、年格好は十八か十九歳くらいかな。
あたしより、一つか二つ上だろうか。
でも、なかなか、目鼻立ちもすっきりとしている。
口は酷薄なといっていいくらい。
今までで、見てきた中でも一番の美男子かもしれない。
その殿上人はどこか、憂い顔で簀子に座って、ぼんやりと空を眺めているようだった。
あたしはこのまま、隠れて見ているだけなのも怪しまれそうなので、すっくと、立ち上がった。
すぐに、くらりとふらついてしまいそうになった。
そこをぐっと、我慢して、さわさわと衣ずれの音をさせて、殿上人との距離を狭めていった。
一人の女房として、話しかけるんだったら、大丈夫かな?
そんな期待とも好奇心ともいえないわくわくした気分になってくる。
殿上人はさっきまで、ぼうとしてたけど、こちらに近づいてくる人の気配に気づいたようだ。
こちらを振り向いて、目を見開く。
別に、驚いているわけじゃない。
誰かと、はっきり、見定めようとしているらしかった。
おやっ、という表情になり、あたしをじっと、見つめた。
「見慣れない女房だな。何か用かな?」
最初の言葉はこうだった。
「あの、あた…わたくし」
「新参の者か?」
「あ、はい」
あたしはこれを言うのが精一杯だ。
今まで、義隆や父上以外の男性と面と向かって、しゃべったこともなかった、そういえば。
「いや、失礼。いきなり、側に来るから、何かと思ったのですよ。あなたは見た所、宮仕えにまだ、慣れていないようだね」
あたしの突飛な行動が珍しいので、最初は驚いたが。
面白がっているようだ。
くすくすと笑いながら、親しげに話しかけてきた。
「この殿舎の中にいるということはこちらの藤壷の女御様付きになるね。あなたはこちらで催される女楽の宴には出席しないのですか?」
「いいえ、宴には出ませんの。女御様が『そなたはまだ、慣れていないから、宴には出なくていい』とおっしゃいましたから」
「ほう。そうなのか。いや、実を言いますとね。殿上人や公達の間では、女楽の宴が大変、話題になっていて、私も楽しみにしているのだが」
そういうと、また、さっきと同じ表情にどうしてか、なってしまった。
あたしは一緒にだんまりなのも、嫌なので、話をついだ。
「わたくしも、女楽は面白そうだな、と思っています。でも、宴に出ることができなくて、暇だったのです。あの、そういえば、あなた。名を何とおっしゃるのか、聞きたいのですけど…」
「ああ、本当だ。名乗るのを忘れていましたね。つい、話をしている内に気づかなかったようだ」
正直に、名前のことをいってしまった。けれど、この人、全く、不機嫌そうにはしない。
それどころか、あたしと話しているのを楽しんでいるようだ。
「自分で名乗ろうとは。あまり、ないものだから、慣れないな。まあ、あなたはなかなか面白い。いいでしょう。私のことは宰相中将と呼べばいい」
「わかりました。宰相中将様ですね。ごめんなさい。どうしても、名前が思い出せなくて。ありがとうございます」
「別にお礼をいわなくても、よろしいですよ。だが、新参の女房といっても、あなたはあまり、世間慣れしていないな。普通は他の女房たちから、公達の噂もきくことがあるのにな。不思議だ」
「そうですか?わたくし、別にそういうつもりじゃないんですけど」
つい、ぽろりと言ってしまった。
宰相中将は先ほどの楽しそうな表情とは違って、驚いたように、大きく、目を見開いた。
あたしも驚いて、肩をすくめた。
「別に、か」
中将はぽつりと呟いた。
その後、気を取り直すように笑った。
「面白いことになってきたな。では、あなたも名乗ってもらえますか?私も名乗ったのだから」
よっぽど、珍しいのか。
それとも、あたしに、興味を持ったか。あたしは疑いつつ、自分の名前を名乗る。
「ええと。それでは、少将とでもお呼びください」
「…ふむ。少将というのか」
「どうかされましたか?」
「いや。あなたの事をどこかで、見かけたような。どこでだったか」
中将はしきりと、首を傾げ、考え込んでしまった。
「え?あの。わたくしの事を見かけたことがあるって。どういうことですか?」
「…いえ。特に深い意味ではないのですよ。ただ、あなたが私の縁の人に似ているような気がしたものですから」
「縁の人って、どなたのことですの?」
あたしが率直に聞き返すと、中将はふと、昔のことを懐かしむような表情をした。
さっき、ぼうとしていたのは、昔のことを思い出していたから?
きっと、そうかもしれない。
あたしも、昔ー子供の頃は今でも懐かしいから、わかる。
誰でも、過去の思い出を回想する時って、気持ちがしみじみとなるのよね。
中には、辛い記憶を背負っている人だっているのだ。
あたしも典子姉様や一緒に遊んでいた男の子が今でも、懐かしい。
ほんの短い間、一緒ないたあの男の子。名前もわからないから、好きな木の名前で呼んでいた。
橘の君と。
そしたら、照れたように笑っていた。
「僕のことは、烏丸みたいな呼び方でいいですから」
そう、言っていた。橘の君って、そんなに嫌だったのだろうか。
「縁の人といっても、何年も前に生き別れた幼い少女ですよ。まだ、私も子供だった。そう、十年も前にたまたま、父上のお供で、大納言様の東三条邸へ伺った事がありました。私も、大納言家の庭は見事だ、という評判を聞いたものだから、散策をつい、好奇心でしてね」
中将はくすりと笑った。
「庭の方へ行ってみたら、何やら、元気に走り回る少女を見つけましてね。女童かと、思ったのだが。よくみれば、なかなか、立ち居振る舞いもすっきりとしていて。もしや、大納言家の姫だろうか、と声をかけてみたのですよ。そしたら、その少女は私に、一緒に遊ぼうと言ってきた」
あたしはその後も話を聞き続けた。
「私は父のお供をしていたから、それは無理だから、またの機会にと約束をして別れた。それから、その姫の元へよく遊びに行きました。姫はとても元気で、まるで少年のように、走ったりしていましたよ。追いかけっこをよくした。けど、姫は隠れ鬼が好きでね。たちまち、素早く隠れて、なかなか見つけられなかった。そうしたら、顔を真っ赤にして、怒っていましたね。毎日がとても、愉快で、まるで、夢のような日々だった。時々、姫の他に男の子がいて。その子は弟君だったそうだが」
中将は自分の中の思い出に浸りながら、過去のことを話した。
でも、その大納言の姫って。
あたしは十四の時に、父上の邸に引き取られたから、東三条にいるわけないしな。
あれ、でも、ちょっと待てよ?
あたし、そういえば、二日か三日に一度の割合で、弟の義隆に会いに、東三条邸に通っていた時がある。
父上が母のいないあたしを二条邸に預けていた。
あの時、母上はあたしが六歳の頃に亡くなったから、父上が自分の手元へ引き取ろうとしたのだ。
でも、まだお元気であった先代の関白左大臣のお祖父様と今上の姉宮であられたお祖母様が、姫は亡くなった娘の忘れ形見。手元に置いて育てたい、といって、猛反対されたのだ。 父上も渋々、あたしを二条邸へ置いて、弟の義隆だけを引き取ったのだ。
叔母様もいたから、父上も強く言うことができなかった。
もともと、父上と母上の結婚にはお祖父様とお祖母様は反対していたらしい。
そのせいで、娘であるあたしは二条邸で育てられる事になった。
その代わり、父上は東三条邸へ、『弟に会いに行く』という名目で少しでも、来させることを条件にしたらしい。
言ってみれば、交換条件といったとこね。
「その姫のお名前はわかりませんの?もし、よろしければ、教えていただけないですか?」
「姫の名前?私もずいぶんと前のことだから、よくは…」
中将はよくわからないという表情をした。
あたしは試しに、口にしてみせた。
「あの、香子姫というのでは?」
「香子姫?あなたはあの姫について、何か知っているのですか。香子姫といえば、藤大納言の大姫ではないか」
中将は疑うような目であたしを見る。
その香子姫が実はこのあたしなのよ。
この際、きっぱりといってしまいたい。けれど、女房として、ここにいる以上は、『少将の君』を演じなければ。
「そう。香子姫といえば、未だに独身を通しているというではないか。私も噂に聞くだけだが。姫らしからぬ言葉遣いに、何にでも、首を突っ込みたがるその性格。あげくの果てには、邸の中を走り回っているという。一部では、どこぞの鄙つ女を養女にしたのでは、ともいわれている。まあ、とにかく、香子姫については良い噂を聞かないね。だが、もしや、あの姫が…」
あたしもその姫と自分に共通点があることに気がついていた。
そうだ。
その姫はある大納言の娘で弟がいた。
あたしと同じだ。
「あの、それでは、中将様。もう一つ、聞きたいのですけど。その姫について、何か、名前以外のことでご存知のことはありませんか?」
「名前以外でか。特に知っていることもあまりないが。確か、年は十歳かそれぐらいだったような。後、母君を亡くしたということを聞いて、私の前で泣いていましたよ」
母君を亡くしたということを聞いて、あたしは思わず、息をのんだ。
それ、たぶん、あたしのことだ。
十歳の頃、母上のことが懐かしくて、あの名前も知らない橘の君の前で、泣いたことがあった。
でも、中将が話しているその姫はあまりにもあたしとの共通点が多い。
大納言、弟。
そして、母を小さい頃に亡くした。
もしかして、今、目の前にいる中将があの橘の君?
嘘でしょ、これ。
できすぎている。
この人が橘の君だなんて。
そんなこと、ありえない。
橘の君は病のせいで、亡くなったって、聞いた。
だから、生きているはずがない。