第五章 揺れる想い
荻乃や小夜の局を出た後で、鈴鹿の所へも寄ってみた。
「鈴鹿。体の調子はどう?」
引き戸を開けて、入ってみると、小袖に上着を羽織った鈴鹿がいた。
用意された薬湯を飲んでいたようで、あたしが来たのに驚いて、器を落としそうになっていた。
「姫様!」
まあ、こんな所に来られるなんて、と鈴鹿はそうこぼした。
「…ちょっと、気になったから、様子を見に来たのよ。もしかして、義隆みたいに、熱でも出たのかと思って」
すると、鈴鹿は文机の上に、薬湯の器を置いてくると、あたしに深ヶと手をついてみせた。
「このような所にまで、来られるとは。申し訳ございません」
涙の混じった鼻声でそう言ってくる。
どうしたらよいものかと考え込んでしまう。
顔を上げると、あたしは文机にある薬湯を取ってきて、手渡してあげた。
鈴鹿は慌てて、それを受け取る。
苦そうな匂いが部屋に広がった。
「鈴鹿。一緒に後宮に行けなくて、寂しかったでしょう?」
「そのようなことはありませんわ。かえって、姫様が困っておいでなのではないかと心配でした」
そう、と言うと、静かに薬湯を飲んだ。 「…とにかく、下男や女房たちも気の毒だったけど。鈴鹿や小夜、荻乃たちが生きていてよかったと思うわ」
そんなことをいうと、鈴鹿は泣き笑いのような表情になった。
「私だって、火事の現場に主であるお方が来るとは思いませんでした。あの時は本当に驚きました」
あたしは返事ができなかった。
確かに、その通りだ。
普通の姫であったら、燃えさかる炎の中に飛び込もうなんてしないはずだ。
でも、友成が来てくれて、大分、助かったのはいうまでもない。
「姫様?」
鈴鹿は不思議そうな顔になっている。
「い、いや。何でもないのよ。大丈夫だから」
「…姫様も大分、お疲れになられているようですね。私のことは良いですから。お部屋に戻って、ゆっくりとお休みください」
にこやかに笑いながら、そう言ってきた。
言われた通りに、部屋へ戻ったのであった。
自分の部屋に帰ると、女房達の代わりに友成がいた。
「ああ、姫。様子はどうだった?」
「どうも何も。お局で薬湯を飲んでたわ。今はあまり、気分が良くないみたい」
「…そうか。あんな事があって、半日も経っていないからね。それに、君と一緒に後宮へ行けなかったから、よけいに疲れてるんだろうね」
あたしはそれに首を傾げた。
「どういうことなの?」
「普通は宮仕えをしていたとしても、下仕えの者を連れて行くじゃないか。君の場合、一人もそういった者たちを連れて行かなかっただろう?」
「つまり、連れて行かなかったことで、鈴鹿にいらぬ心配をかけさせてたって、言いたいの?」
「…まあ、そうともいえるね」
友成は苦笑しながら、言った。
りりと、松虫が鳴いている。
先ほどの火事の時とは違い、静けさが辺りに満ちていた。
「それにしたって、東三条と違って、ここは静かよね。何だか、火事のことが嘘のようだわ」
「そうだね。僕もそう思うよ」
そろそろと、御簾に寄って、秋の草花である撫子の花を眺めた。
しばらく、小半刻ほど経ってから、友成は立ち上がった。
「…姫。僕はそろそろ、失礼するよ」
すたすたと、部屋を出る。
あ、と声を挙げた時には簀子縁に下りた所であった。
「待って。どこへ行くの?」
「…どこって、一条宮にだけど」
不思議そうな表情をして、言った。
一条宮はちなみに、友成の実家である。父君である兵部卿宮様が母君である方から、受け継いだ邸であったはずだ。
「そう。だったら、良いわ。引き留めてしまって、悪かったわね」
友成はにこやかに笑いながら、去っていった。
雁が鳴く音が聞こえる中、空が紅と黄が混じった色に変わる。
夕暮れ刻が近づいていた。
あたしは庭を見ながら、しばらく、その場を動けなかった。
その後、お湯殿に入って、炎のせいで焼け焦げた髪を女房たちに洗ってもらい、手や足についた煤も落としてもらった。
実は陰陽道、占では髪を洗ってはいけない日であったのだけれども、それを無視して、今に至っている。
あたしもそこは公卿の娘ではあるから、身の丈よりかは少し越したくらいの長さがある。
今時、女にしては短い方だけど。
それでも、小豆と米のとぎ汁で髪を洗うと、さっぱりする。けれど、吸った水のせいで重たくなる。
半刻ほど入った後、上がった。
小袖に単を羽織ったままで濡れた髪を乾かす。
小夜や荻乃、他の女房が二人、四人がかりでする。
くしけずるのは荻乃で小夜達三人が蝙蝠を使って、風を送っていた。
こんなことをすると、怒られるだろうか。
ふと、見るとさわさわと衣擦れ(きぬず)の音がして、女房が部屋に入ってきた。
「…姫様。藤の縁の方が来られていますが」
「藤の、って?」
「後宮の侍従の君が来られています」
恭しく、頭を下げる。
「…今のこんな状態じゃ、会うにあえないわね。御簾越しで対面してくれるかどうか聞いてちょうだい」
「わかりました」
あたしはふうとため息をついた。
じわじわと疲れが出てきているようだ。湯を使わなければ、煙の匂いが鼻や体にしみこんでいる気がして、仕方がなかった。
どうして、あたしの邸が燃やされなければ、いけないのよ。誰かが恨みを持っていて、やったとか?それはありえないと言いたい。
けれど、そんなことしか考えられない。父上が落ち着いたら、尋ねてみよう。
そう決意したのであった。
「…ああ、東の君。また、後宮を飛び出して行かれて、女御様や二条の御方様がとても、心配していらしたのですよ」
藤の縁こと侍従は泣きはらしたのか、眼が赤く充血していた。
御簾越しで会うことを彼女は二つ返事で承諾してくれた。
それは良いとしても、髪をわざわざ、洗わない方がよかったかもしれない。
こんな状態で女御様の名代である侍従が伝えることを考えれば、何をやっているのかとお怒りになるかもしれないからだ。
「あの、姫様。少しはお返事をなさらないと。失礼になります」
荻乃が注意をしてくる。
「…侍従。確かに今回は迷惑をかけたと思っているし、反省してもいるわ。けれど、大人しく待つことがあたしにはできなかった。やっぱり、実際の状況を見てみないとわからない部分も多いし」
「ですが。姫様はご存知ではないのですね。今回の後宮入りは東宮様のお妃候補として、顔合わせをする手はずだったのですけれど…」
あたしはそれに耳を疑った。
「東宮様!?そんな話、聞いてないわよ。父上も承諾済みだったってことなの?」
一気にまくしたてると、侍従は手をついて、頭をたれた。
「…申し訳ありません。東の君、いえ。香子姫を後宮へ、というのは右大臣様の要望なのです。典子姫様は反対なさっていたのですけど…」
侍従は苦い表情を浮かべている。
「そうだったの。叔母上も随分と怒っていらしたわ」
「はい。二条の御方様はすぐに文を書いて、右大臣様を呼び出されまして」
そして、すぐにあたしを東宮の妃がねとして、後宮入りさせること。
それをやめさせたらしい。
少しは藤壷様の立場を考えるように促したという。
普通であれば、東宮の妃に摂関家と皇家の血が濃い姫がなるのは喜ぶべきことだ。
仮にも、あたしの祖父上は太政大臣まで務めあげられた方だし、母方の祖父上も関白左大臣であられた。
同じく、お祖母様も先帝の第三皇女であられるし。
母上は宮腹という生まれ。
これだけ、並べれば、身分と血筋だけは良いので妃に選ばれる。
あたしのこの性格さえなければだけど。 「…でも、何で、典子様まで反対なさっているの。あたしが後宮に入ったって。東宮妃だったら、寵を競うようなことにはならないのに」
思い切って、尋ねてみた。
すると、侍従は少しだけ、にじり寄って近づいてきたのだ。すぐに、荻乃にちらと目配せをすると、心得顔で小夜たち三人と一緒になって、静かに退出していった。
「それは、女御様に一人もお子様がまだ、お生まれでないことに関係しています」
その一言を聞いて、あたしはすぐにぴんときた。
「あたしが入内して、東宮妃になって子を生めば。藤壷様が困る、ということね?」
「その通りです。藤壷女御様に男皇子がご誕生になっても、香子様が東宮様の皇子をお生みになれば、宮中で醜い権力争いが起こることになりかねません。左大臣様にしてみると、敵対していた右大臣様の弟君である大納言様が味方になるとなれば、喜ばしいことでしょうけど」
「そのように、考えておいでなのね。女御様は…」
ぽつりと呟くと、侍従はうなずいた。
「…右大臣様は入内して、もう四年あまりになるのに、ご懐妊の気配がないことに苛立っておいでなのです。女御様が皇子をお生みになるように、子宝祈願で有名なお社や寺に乳母の方が直に足をお運びになるほどでして」
あたしはそれを聞いて、うんざりとした気持ちになった。
「そういえば、『子を産んでほしいという周囲の期待がわたくしには苦しい』ということをおっしゃっていたわね。泣いていらしたわ」
淡々と言うと、侍従が驚いたように顔を上げた。
「そうだったのですか。そのようなことをおっしゃっていたとは…」
おいたわしいと侍従はいった。
「…今回の火事の件では女御様がひどくご心痛になられていまして。安全の為にも飛香舎へお戻りいただきたいと。今上様も大変、衝撃を受けていらしたそうにございます。私、それをお伝えするために参ったのです」
手をついて、深ヶと頭を下げる。
「わかったわ。けれど、後もう一日時間をくれない?」
「何故ですか?」
すぱんと言われて、返答に困る。
頭をひねりながら、いった。
「…髪を洗って、間がないの。乾くのに、丸半日はかかりそうだから。後、父上と義隆に別れの挨拶をしておきたいのよ」
苦笑しながらいうと、侍従は困惑したようにこちらを見てきた。
え、と声をあげながら、固まってしまった。
「御髪をお洗いになったのでございますか?いくら、残暑がある時節といえど、火事がようやく、おさまったところですのに。軽率なことを」
「あのね。とにかく、明後日になったら、飛香舎に戻るから」
慌てていった。
すると、侍従は真剣な面もちになった。 「わかりました。私もちゃんとしたお返事が頂けるまで、一日待ちます。それでよろしいですわね?」
「え、ええ。そうしてちょうだい」
では、と言って、退がる侍従を簀子縁に控えていた荻乃が紙燭を持って、別室まで、案内していった。
あたしはそれを見送りながら、眼をつむった。
疲れが出たのかもしれなかった。
翌日の昼にあたしはようやく、髪も乾いたので正装に着替えて、父上のいる寝殿に向かった。
重たいし、眠たくもあったが我慢をする。
太秦の別邸は東三条よりも手狭である。ゆっくりではあっても、早めに着いた。 御簾をからげて入ると、父上が脇息にもたれて、休んでいるところであった。
「…おお、香子ではないか。昨日はすまなかったな」
「いえ。父上もお怪我などないようでよかったです」
父上は苦笑していた。
「わしの事はいいから、義隆の所へ行ってみなさい。随分とうなされておったぞ」
「そうなの。わかりました」
丁寧に言うと、父上は満足そうに笑った。




