序章
今は夏である。
暦の上では、そうだけど。
あたしはげんなりだ。
人生の冬って、こういうものをいうんだろうか。
今の女性の成人式である裳着のお式を終えた十四歳の頃あたりから、いろいろと胡散臭い話が飛び交っていた。
ところが、十五くらいになって、年が明けたと同時に、はっきりと結婚の話が来だした。
公達からの文がうっとうしいほどに、届けられたのであった。
その度に、父上が来て、
「おまえも公達からの文がきたら、返事くらい、送ったらどうだ」とか、言ってくるから、困ったものだった。
そして、十六歳ななっても、相変わらず、縁談が決まらないまま、十七歳になっていた。
「女の幸せは良き婿を通わせてこそ。それなのに、せっかく、来る文に全く、取り合わぬものだから、めっきり減ってしまったではないか。おまえはこのわしを気の毒にとは思わんのか!」
とうとう、父上は痺れをきらせて、あたしに説教をした。
あたしも黙ってはいない。
「何が気の毒にだか。毎日、公達からの文を片手に説教する父上に誰が同情なんか、するもんですか。あたしは結婚するなんて、一言もいった覚えはないわ!」
「なっ、香子!」
「返事を出さないからって、あたしは結婚する気なんて、さらさらないわよ」
「何を馬鹿なことを。大納言家の姫ともあろう者が十七にもなって、婿の一人もおらぬなど。おまえは恥ずかしくないのか!」
「ふん。恥ずかしいも何もあるもんか。馬鹿なことを言ってるのは、父上でしょ」
そういうと、父上は何も言い返さずに、黙り込んでしまった。
はあと、ため息をする。
父上は眉間に手を当て、しかめっ面になっている。
御簾越しではあるけど、けっこう、はっきりと見えた。
「おまえがそんなだから、わしも頭を悩ませているというのに」
父上はあたしにそんなことを言った。
あたしとしては、それがどうしたって、とこだけど。
でも、父上の表情を見て、それも、気の毒なので、言わないことにした。
何だか、気まずい雰囲気ではある。
でも、その沈黙があまり、長く続くと気まずいというよりも、不気味といっていいくらいだ。
もしかして、このまま、だんまりを続けるのかと不安になりだした。
あたしは何かをいおうと、口を開いた。すると、父上はすっくと立ち上がった。あたしはどうしたのかと思わず、扇を閉じて、身を乗り出した。
「香子。今日はこれくらいでしておくが、おまえがこの先も、「独身を通す!」といえば、我が大納言家はどうなるのか。わしはそれが気がかりなのだ。ではな」
父上はそう言い残すと、出ていったのであった。
ふぅっと、ため息がもれた。
嵐が過ぎ去った後の心境だわ。
それにしても、こんな毎日だと、やりきれないったら、ありゃしない。
まったく、つくづく、昔が懐かしくなる。
なんといっても、あの頃は結婚話なんてなくって、毎日、遊んでいられたんだよね。
ああ、思い出すなあ。
現在は今上帝の女御様になられた典子姉様のことを。
典子姉様は、すごく美人で、優しくて、気品のある方だった。
いとこ同士で、早くに母上を亡くしたあたしに、姉のように接してくれた。
でも、あたしが十三歳になった頃に、典子姉様は女御として、入内してしまわれた。
いつも、側にいて、実の姉みたいに思っていたのに、会うこともままならない後宮へ入ってしまわれたから、複雑な心境だった。
確かに、大臣家の姫ー右大臣家の大姫が入内するというのはおめでたいし、この先の行く末も安泰は約束されたようなものだ。
けれど、あたしとしてはこれから、会えないとなると、やっぱり、寂しい。
泣きはしなかったけど、心にぽっかりと穴が開いたようだった。
あの時はそんな感じで、後でこっそりと叔母様に頼んで、文を典子姉様に届けてもらった。
しばらくして、典子姉様から、直筆の返事と布包みが贈られてきた。
白い布で、包んであって、中身は漆塗りの櫛であった。
たぶん、あたしの裳着の式が近いことに、気配りしてくれたのだろう。
今でも、お歌はよく覚えている。
確か、こんなお歌であった気がする。
〈ふたかたにいいもてゆきけれ小櫛にてはるけき仲となくと思えば〉
訳は、『私とあなたは近しい間柄なのです。贈った櫛はその証。大事にしてくださいね』といったものだ。
少し、ぎこちなくはある。
たぶん、お忙しかったかで、あまり、凝ることもできなかったようだ。
でも、典子姉様って、割と歌を詠むのは苦手だったな、そういえば。
漢詩は博士も舌を巻くほどなのに。
姉様のことを思い出していると、しんみりとしてきて、側にあった脇息を引き寄せて、寄りかかった。
その時だった。
向こうの渡殿から、ばたばたと足音がして、あたしは耳を澄ました。
入り乱れた衣の激しく擦れ合う音がする。
いったい、何が起きたのかと膝立ちになる。
足音はだんだんと近づいてきて、やがて、女房の鈴鹿が息せききって、走ってきた。
「ひ、姫様。おられますか!」
「何?あたしはちゃんとここにいるわよ。それより、いったい、どうしたの?」
膝立ちになっていたけど、わざと落ち着いた、冷静な声で答えた。
すると、鈴鹿は顔を青ざめさせた。
「はい。それが内裏から、御使者の方がお見えになって」
「え!内裏から、ですって?それに御使者…」
あたしは驚いて、声をあげていた。
けれど、父上や弟の義隆の方かもしれない。
なんといっても、内裏ー朝廷からの御使者は内々の時だってあるし、急用ができた場合でも出るらしい。
まあ、大体の公の場合は、勅使というのだけど、細かく分けると、いろんな名称がある。
だから、一口に勅使といっても、いろいろあるのだ。
でも、あたしみたいに一貴族の姫はよっぽどのことがない限り、勅使が来るわけがない。
何か、朝廷に異変があったとしても、普通は公卿や公達に情報がいくのだ。
となると、女は表には出てこない分、政治に関わったりすることがあっても、噂話や人を介してしか入ってこない。
そういう風に考えると、朝廷からの御使者も納得できる。
だけど、この鈴鹿がどうして、こんなにも慌てた様子でいるのだろう。
「…姫様、すみませんが、よくお聞きになってください。今から、申し上げます。後宮の飛香舎より、お使者が来られました」
「後宮から?」
さっき、内裏というから、驚いたけど。後宮となると、たぶん、あの典子姉様、藤壷女御様だろう。あたしは少し、ほっとしながらも、居住まいを正した。
「今上帝の妃であられる藤壷女御様のご名代として、女房の高倉侍従殿が来られました。香子姫様にお目通りしたいとのことです。内々のことでお伝えしなければならないことがあるそうです」
鈴鹿はさっきの慌てぶりはどこへやら、きびきびという。
「藤壷女御様の代理なのね」
訊くと、鈴鹿は肯いた。
高倉侍従となれば、そうだろう。
本当に、何かあったのかな。
「わかった。こちらにお迎えしてちょうだい」
鈴鹿は手をついて、頭を下げると、御使者を迎えに、退がった。
しばらくすると、鈴鹿の先導で、二十四か語になる高倉侍従が衣擦れの音も静やかに現れた。
侍従は典子姉様のお付き女房で顔なじみである。
さすがに、古参とまではいかないけど、優雅でたしなみのある物腰だった。
庇の間に、膝をついて、しずしずと手をついた。
「後宮よりの御使者殿、こちらへ」
御簾越しにいうと、わずかに膝を進めた。
「姫様、まずはご用件を申し上げたいのです。それはお許しくださいませ」
「ご苦労様」
あたしもとりあえず、頭を下げた。
「では、申し上げます。今度の乞興殿の折に、後宮では、女御様方が宴をなさいます。その時に、女楽も催されるのですけど。こちらの大納言家の姫様にも後宮に来ていただきたいとのことでございます」
いろいろと、難しい事をいわれたので、どう受け取ったらいいのか、わからない。
大体、女楽って、何だ?
「ねえ、侍従。ちょっと、訊きたいのだけど」
小声で尋ねてみた。 「はい。何でございましょう」
侍従も小声で答えた。
「姫様はご存知ではなかったのでしたね。女楽というのは、後宮の女房たちが管弦の演奏をすることです。藤壷様も御自ら、箏の琴をお弾きになります」
「ふうん、そうなんだ」
興味深げに肯いてみた。
侍従はまた手をつき、口上を述べた。
「女御様はさよう、おっしゃられております。すでに、準備はできていますので」
「…出仕の日時は決まっているの?」
「はい。翌日の朝、卯の刻、丑虎を避けて、巽の方角から、御門に入られるのが良いとのことでした」
「卯の刻?けっこう、早いのね」
驚いて、そういった。
「はい、女御様の仰せでございます。香子様もこのまま、わたくしどもの車で後宮に来られるよう、お願いします」
今は昼間だけど、要はすぐに来い、ということなのか。
隅に控えていた鈴鹿に、あたしは咳払いをした。
これは合図になっていて、鈴鹿は気づいて、簀子の方に下がっていった。
あたしは、背筋を正して、気分を落ち着けた。
「…高倉侍従殿、別室にて今は、ゆるりと休まれるように。後宮のこと、承知しました」
侍従は深ヶと頭を下げた。
「ありがとうございます」
その一言を述べた後、鈴鹿が部屋へと入ってくる。
そのまま、鈴鹿の先導で客室へと移っていった。
あたしは御簾をからげて、庇の間にへたり込んだ。
後宮に女房として、行くー。
そんな話まで、出るなんて。
一体、どうなっているんだろう。
あたしは頭痛と目眩に襲われるのを感じた。
ゆっくりと、目を閉じて、ため息をつくのだった。
「姫様!侍従殿は客室にて、ずっと、待っていられます。さ、早く、お湯殿に。入ってくださいませ!」
鈴鹿がすごい形相で、あたしを無理矢理、追い立てる。
お湯殿に半刻ほどもいた後、お化粧をされ、正装として、唐衣をつけられた。
参内するのも、いちいち、大変だ。
あたしくらいの身分の姫になってくると、普段は滅多に正装なんてしない。
もっと、楽な格好でいるのだ。
それを庶民の人ヶはどこかで誤解をしていて、身分の高い姫君たちはみんな、こんな格好して、着飾っていると思っている。
でも、これは大きな間違いで、こんな正装をするのは、仕える側の女房や女官たちなのだ。
だから、主人の側は普段着でよいのだ。 それはともかく、正装をするなんて、滅多にないものだから、かなり重い。
また、頭がクラクラしてきて、自分が情けなくなってくる。 こんなに体力ないんだったら、馬に乗ったり、運動を少しでもしていたら、よかった。
鈴鹿はそんなことお構いなく、着々と準備を進めていく。
そうして、夜も大分更けた亥の刻過ぎに、あたしを乗せた牛車は後宮へと出発した。