1.「57」
どれだけの時間沈み続けてきたのだろうか。体はろくに動かすことが出来ずに、大の字に仰向けの状態で、ただただ沈み続けている。生温い水温に、見渡す限りの青。大海原に抱かれるように、心地よい浮遊感がある。ゆっくりと、しかく確実に漆黒の闇へと吸い込まれるように。頭はぼんやりしていてはっきりしないが、今の自分にはこれが正常な状態なのだと思える。目の前は揺ら揺らと光が降り注いでいる。目を細めると万華鏡を覗いているかのような美しさだ。眩しいと感じるほど強いものではない、むしろ優しい温かさすら感じる光。
時折海底から昇ってくる気泡の一つ一つがピアノの音色のように耳の側を通り抜ける。遠い昔に聴いた子守唄のような懐かしい感覚が体を包む。それでいて、どこか切ない。何故かとても心が落ち着く。自然と目を瞑ると再び深い眠りついた。
どれだけの時間沈み続けていたのだろうか。再び、ゆっくりと目を開けると更に深い処まで沈んでいたようで、辺りの闇は色の深さをも増ていた。眼前の遥か先に見える光は、消え入りそうな儚さだった。生命の終わりのようにも、始まりのようにも感じる尊い光だった。
自分の人生は、あの光のように尊い何かを残せたのだろうか。改めて自分の手を見てみると、五十七歳という年齢を感じさせる手をしていた。還暦を迎えてはいないが、お世辞にも綺麗とは言えない。特別苦労したという思いは無いし、楽をしてきたわけでもない。そんな、平凡な手をしていた。しかし、今まで立派に自分を支えてきた体の一部だ。仕事をこなし、妻を抱きしめ、娘の頭を撫でてやった、家族への愛をこの手で築いてきた。柄にも無く、ありがとうと呟くと、温かい優しさに包まれた気がした。