過去編:泥濘の玉座
玉座に座る魏影の視界は、常にどろりとした泥の中にいるかのように濁っていた。
流行病と暗殺の応酬で、血の繋がった兄たちが次々と骸に変わっていったあの日から、彼は一度も心から呼吸ができた試しがない。
「陛下、麗家の領地拡大の件ですが……」
「いいえ陛下、まずは軍備の増強を。北方の蛮族に備える名目で、我が一族に徴兵の権限を」
広間に並ぶ家臣たちの口から零れるのは、国の安寧を願う言葉ではない。
いかにして他者を蹴落とし、自分たちの家門に利益を誘導するか。
その一点のみだ。
彼らの言葉は、魏影の耳には「歌」ではなく、飢えた獣が骨を噛み砕くような不快な雑音として響いた。
ある時、魏影が守り育てていた幼い弟の食事に、猛毒が仕込まれたことがあった。
犯人を突き止めれば、それは魏影が最も信頼を置いていたはずの重臣の差し金であった。
「陛下のためでございます。あのような出自の怪しい幼子を世継ぎに据えれば、後の禍根となります。ここは一つ、陛下にこそ真なる血統の世継ぎを……」
跪きながら、その重臣はさも忠義面をして言い放った。
魏影は無言でその男を見下ろした。
弟を殺そうとしたのは、国のためではない。
自分たちの息のかかった娘を魏影に娶らせ、新たな権力を握りたいという、ただそれだけの私欲。
(……ああ、醜いな)
魏影は、静かに吐き気がした。
誰一人として、俺を見ていない。誰一人として、この国の未来を考えていない。
彼らにとっての皇帝とは、ただの「便利な印章」か、あるいは自分たちの欲望を正当化するための「御旗」に過ぎないのだ。
「下がれ。……二度と、俺の前で『忠義』を口にするな」
魏影の冷徹な一喝に、家臣たちは怯えたように引き下がった。
だが、一人になればまた別の家臣が、別の欲望を持って近づいてくる。
終わりのない、繰り返される日々。
魏影は、誰もいなくなった深夜の執務室で、一人喉を鳴らした。
それがいつしか、独り言のような、呪いのような、孤独な「歌」になった。
この醜悪な人の世に絶望し、それでも「役目」という鎖に縛られて逃げられない男の、音にならない悲鳴ー福音ー。
(俺は、いつまでこの『人間』という皮を被っていればいい?)
そんな折に出会ったのが、月明かりの下、手すりに腰掛ける天珠であった。
欲も妬みもなく、ただ自分の歌を好んだ彼女こそが、魏影にとって唯一の、泥濘の中に見つけた神の救いだったのである。




