黒狼の誓い、翠玉の森への約束
ー願いは、叶えられた。
恐ろしく月の大きな晩。
宮中は音を失っていた。
魏影の瞳からかつての凍てつくような孤独は消え、そこには天珠を慕う、熱い灯火が宿っていた。
「……さて。そなたの願いは聞き届けた。妾は、翠玉の森へ帰るとしよう」
月明かりの差し込む寝殿で天珠が告げると、魏影は雷に打たれたような顔をし、なりふり構わず天珠の裾に縋り付いた。
一国の主としての矜持など、とうに捨て去ったかのように。
「待ってくれ! 叶ったのではない、其方が居なければ、俺はまたあの暗闇に引き戻される!」
「……」
「頼む、連れて行ってくれ。神の住まう、その森へ」
天珠は困ったように眉を寄せた。
「無茶を申すな。神の森へ入れるのは、妾と、妾に仕える使い魔のみ。人の身では、森の入り口で魂が霧散してしまうぞ」
「なら、俺を獣に変えてくれ。其方の足元に傅く犬にでも、影に潜む獣にでもしてくれ。其方と共に居られるのなら、人の座も、この命も、もはや未練はないんだ」
その瞳に宿る、狂おしいほどの真実。
天珠の胸の奥が、トクンと高く鳴った。
だが、それは恋心などではなく、この男の底知れない執念に当てられた、当てられまいとするための警戒だ。
魏影は、天珠の裾を掴んだまま、自嘲気味に笑った。
「あんたも知っての通り、俺は好きでこの椅子に座ったわけじゃない。……流行病がこの宮中をさらった時、兄も弟も、次の王になるはずだった候補は皆、死に絶えた。生き残った連中も、互いに毒を盛り合い、策に溺れて勝手に自滅していった」
天珠は黙ってその言葉を聞いていた。
人の世の欲が、どれほど容易く血の海を作るかは天珠が神である故知っている。
「その中で、たまたま生き残ったのが、あの腹違いの幼い弟だ。あいつに情があるわけじゃない。だが、俺がこの国を放り出せば、あいつもすぐに殺される。……だから俺は、役目としてあいつを次の王に育ててきた」
魏影の瞳に、昏い影が差す。
「俺の人生は、あいつを玉座に座らせるためだけの、空っぽの地獄だった。……だが、あんたの歌を聞いて、初めて役目以外の何かが欲しくなったんだ」
「……」
「頼む、天珠。あいつが独り立ちするまででいい。それまではここで王として振る舞う。だが、その先は……俺を獣に変えて、あんたの側に置いてくれ。もう、人間として生きるのには飽きたんだ」
(これほどまでにしつこいとは。……やれやれ、こうまで食い下がられては、突き放すのも骨が折れる)
天珠は溜息をひとつ、妥協を飲み込んだ。
「……ふむ。後悔しても知らぬぞ。獣になれば、そなたのその美しい歌声は二度と響かぬ。それでもよいのか?」
「構わない。歌うための喉などいらない。あんたの隣にいるための、体があればそれでいい」
天珠がその額にそっと指先を触れると、溢れ出した霊力が魏影を包み込んだ。
骨が軋み、姿が揺らぎ、やがてそこには、夜闇を切り取ったような美しい毛並みを持つ、一頭の「黒い狼」が横たわっていた。
黒狼となった魏影は、自らの前足を見つめ、それから歓喜に震えて天珠の喉元に顔を寄せた。
もはや歌を紡ぐことは叶わない。
けれど、その鼻鳴らしは「これで貴方と共に居られる」という何より執拗な愛の証明であった。
天珠は狼の首を冷たく、しかし優しく押し留めた。
「ならぬ。今すぐ連れて行きたいのは山々だが、そなたにはまだ成すべきことがあろう。幼き弟君を、この混沌とした玉座に一人残してゆくつもりか?」
黒狼はハッとしたように動きを止めた。
「案ずるな。……そなたを新たな使い魔の席に加えてやる。最高の歌い手を失うのはいささか惜しいが、そなたのその執念に免じて、妥協してやろう。だがそれには、そなたが全ての憂いを取り払い、真に自由の身となるまで、しばしここで待つのが条件だ」
天珠はそう言うと、狼の額に、慈しみよりも刻印に近い口づけを落とした。
「妾は一度森へ帰り、使い魔たちにそなたの席を用意させる。数年、あるいは十数年……神にとっては瞬きほどの時間よ。そなたが王宮を去るその日、妾が再び風に乗って迎えに来よう」
黒狼は切なげに目を細め、最後にもう一度だけ、天珠の手に鼻先を押し当てた。
それは、必ずやり遂げるという誓い。
「……良い子だ。次に会う時は、王としての鼻歌ではなく、声なき獣として、ただ妾の影に従うがよい」
天珠の体が淡い光に溶けてゆく。
夜風が吹き抜け、寝殿に残されたのは、月を見上げて静かに遠吠えをあげる一頭の黒狼だけである。
その鳴き声は、歌を失った悲しみではなく、いつか訪れる「永遠」への期待に満ち満ちていた。




