翠玉の森と、帝の調べ
神の住まう地、翠玉の森。
そこは雲よりも高く、人の世の喧騒など届かぬ静謐な場所である。
「……ふむ。今日は少し、耳障りな風が吹いておるな」
妾は、千年育った大樹の枝に腰掛け、細い足を揺らした。
周りでは、白銀の毛並みを持つウサギたちがせっせと果実を運び、黄金の尾を持つキツネが、妾の着物の裾を枕にしてうたた寝をしている。
森の者たちは皆、妾の愛しき家族であり、忠実な使い魔たちだ。
妾は、この世に満ちる「歌」を愛しておる。
鳥のさえずり、川のせせらぎ。しかし、最も妾の心を躍らせるのは、人の子が魂を乗せて紡ぐ歌だ。
それが美しければ、妾はどこへでも赴き、その者の願いを一つだけ聞き届けてやる。
それが神としての妾の戯れであり、慈悲であった。
ーその時、天を流れる風に乗って、これまでに聞いたこともない「調べ」が届いた。
「ほう……?」
それは、言葉を伴わぬ鼻歌であった。
低く、落ち着いた、しかしどこか深い孤独を湛えた旋律。まるで、広大な大地をたった一人で歩む男の背中が見えるような、不思議な調べだ。
「これほど心に響く鼻歌は、三百年ぶりかのう。……皆、留守を頼むぞ」
妾が立ち上がると、キツネが名残惜しそうに鳴いた。巨大な熊がのっそりと現れ、妾を背に乗せる。
「よい、近うまで行けば、あとは妾一人で飛ぶゆえ」
妾は花の香りをまとい、風に飛び乗った。
辿り着いたのは、人の世の頂——煌びやかな龍の彫刻が施された、巨大な王宮であった。
月明かりに照らされた寝殿の縁側に、一人の男が座っておった。
齢三十ばかりの、まだ若い男だ。
しかし、その瞳には一国の命運を背負う重圧と、誰にも明かせぬ憂いが滲んでいる。
彼こそが、この国の主。帝と呼ばれる男ー魏 影ーであった。
魏 影は夜風に吹かれながら、ふたたび小さく退屈そうに鼻歌を漏らした。
妾は我慢できなくなり、宙に舞う薄衣を翻し、彼の手の届くほど近く、手すりの上に音もなく舞い降りた。
「そなた、良い歌を歌うのう」
魏 影は、はっと息を呑んで顔を上げた。
目の前には、人間離れした美貌を湛え、不思議な光を放つ少女——神である妾が座っておる。
普通の人間なら腰を抜かすか、恐れおののいて平伏すところであるが……。
魏 影は驚きに目を見開いた後、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
「……幻か。あるいは、激務ゆえの夢か。まさか、俺の退屈な鼻歌を褒める者が、月より舞い降りるとは。」
「幻ではない。妾は歌を愛でる者。そなたの歌、存外に気に入ったぞ。……して、帝よ。そなた、何か妾に叶えてほしい願いはあるか?」
妾は首を傾げ、悪戯っぽく微笑んだ。
ここから、妾とこの男の、奇妙な交流が始まろうとしていた。




