第29話 狩人の巣と、皮肉屋の博打と、最初の反撃と
「――全員俺に続け。今からこの森で最も危険な場所へと突っ込む」
リアムの常識外れの号令。
それは指揮官としてあるまじき、自殺行為にも等しい決断だった。
アッシュもクロエもフィンも、一瞬その言葉の意味を理解できずにいた。
だが彼らは動いた。
隊長であるリアムの、その覚悟を決めた背中をただ信じて。
四つの影が濃霧を切り裂くように森の奥深くへと突き進んでいく。
俺はその後方、十数メートル離れた位置を保ちながら静かに彼らの後を追った。
(……面白い。見事な判断だリアム)
俺の頭の中ではゲームをプレイしていた頃の経験則がこの状況を冷静に分析していた。
第二騎士隊を壊滅させた狩人――霧幻の狩人は、獲物をいたぶり恐怖に追い詰めてから狩ることを楽しむ極めて知性の高いモンスターだ。
奴は俺たちが野営地の跡で恐怖し防御を固めることを予測していたはずだ。そしてその硬直した獲物を霧の中から一体ずつ確実に仕留めていくつもりだったのだろう。
だがリアムはその狩人の描いた脚本を自らの手で破り捨てた。
防御ではなく突撃。
それは狩人にとって全くの想定外。獲物が自ら牙を剥いて巣の中心へと突っ込んでくるなどと夢にも思わなかっただろう。
この博打は、この絶望的な状況を覆す唯一の活路だった。
◇ ◇ ◇
数分間がむしゃらに走り続けた後、不意に視界が開けた。
そこは森の中とは思えぬほど広大な空洞だった。周囲を巨大な岩壁に囲まれ、天井には木々の隙間から月光のような淡い光が差し込んでいる。
そして何より奇妙なのは、この場所だけあの忌わしい霧が嘘のように晴れていることだった。
だが安堵した者は誰もいない。
なぜならその空洞のあちこちに、見覚えのある武具が無惨に散らばっていたからだ。
へし折られた剣、引き裂かれた鎧、そして砕け散った盾。
その全てに第二騎士隊の紋章が刻まれている。
ここは惨劇の舞台。そして狩人の巣だ。
「……全員、警戒しろ」
リアムが低い声で命じる。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、空洞の最も奥、深い影の中からぬるりと何かが姿を現した。
それは狼ではなかった。
霧そのものが寄り集まってできたかのような黒い人型の輪郭。しなやかな四肢の先には剃刀のように鋭い爪が伸び、顔があるべき場所にはただ二つの爛々と輝く赤い光だけが浮かんでいた。
霧幻の狩人。
原作ゲームでも多くのプレイヤーを絶望させた高難易度のレアモンスター。
その赤い光が苛立ちと、そして獲物を見つけた喜びにゆらりと揺らめいた。
脚本を破られたことへの怒り。そして自ら死地に飛び込んできた愚かな獲物への嘲笑。
だがリアムはもはや以前の彼ではなかった。
彼は恐怖に竦むことなく、この部隊の指揮官として最初の反撃の狼煙を上げた。
「作戦開始。クロエ、前衛。奴の注意を引きつけろ。絶対に深追いするな。時間を稼ぐだけでいい」
「……おうよ」
クロエが獰猛に笑う。
「アッシュ、お前は遊撃。奴の側面と背後を常に狙え。一撃離脱を徹底しろ。奴の動きを掻き乱せ」
「へいへい。わーってるよ、隊長殿」
アッシュが神速で抜刀する。
「フィン、あの岩の上へ。お前の仕事はただ一つ。俺の合図があるまで絶対に動くな。そして全神経を集中させ、たった一撃にお前の全てを込めろ」
「は、はい」
フィンが杖を握りしめ、空洞で最も高い岩場へと駆け上がっていく。
そしてリアムは自ら剣を抜き、クロエの少し後ろに陣取った。
「行くぞ、お前ら。――ガラクタの価値を見せてやれ」
◇ ◇ ◇
戦いは熾烈を極めた。
霧幻の狩人は霧狼とは比較にならないほどの速度と、そして知性を持っていた。
クロエが正面から斬りかかればその勢いを軽くいなし、がら空きになった足元を的確に爪で薙ぐ。
アッシュが側面から奇襲をかければ、身体を霧のように変化させてその剣を空振りさせカウンターの爪を繰り出す。
「くそっ、攻撃が当たらねえ」
アッシュが焦りの声を上げる。
「こいつ、実体がねえのか」
(違う。実体はある。だが奴は攻撃が当たる瞬間にその部分だけを霧状に変化させているのだ。ゲームで言えば常時発動型――に思わせて、実はクールタイムが存在するタイプの厄介なスキルだ。必ず限界があるはずだ)
リアムもまた俺と同じ結論に至っていたようだった。
「クロエ、アッシュ、休むな。攻撃を続けろ。奴のスキルには必ず限界がある」
彼の的確な指揮の下、二人は波状攻撃を仕掛ける。
クロエが正面から敵の注意を引きつけ、アッシュがその隙に側面を突く。
それは彼らが盤上で、そして訓練場で幾度となく繰り返してきた魂の連携だった。
だが狩人はその全てをまるで嘲笑うかのように捌ききっていく。
そしてついにその牙がクロエを捉えた。
防御の隙を突かれ、鋭い爪が彼女の肩を深く切り裂く。
「ぐっ……」
クロエが苦痛の声を上げて後退した。
好機。
狩人はそう判断したのだろう。
彼は負傷したクロエに追撃をかけるのではなく、一瞬でその標的を変えた。
最も厄介な後方の魔術師。フィン・スチュワートへと。
狩人の姿がふっと掻き消えた。
霧の中へと完全に溶け込む。
「……消えた。どこだ」
リアムが焦りの声を上げる。
離れた場所から戦場全体を見ていた俺だけがその動きを完璧に捉えていた。
(……上か)
狩人は霧に紛れて天井の岩壁へと跳躍し、そこから無防備なフィンの背後を狙って音もなく落下してきていた。
それは誰にも予測できない必殺の奇襲。
「フィン! 上だぁっ!!」
リアムが絶叫する。
だがもう間に合わない。
フィンの恐怖に見開かれた瞳に、死を告げる狩人の赤い光が映り込んでいた。




