第28話 深まる霧と、惨劇の痕跡と、ゲーマーの助言と
黒霧の森に再び不気味な静寂が戻った。
「どうする、リアム。とりあえずこの旗を持って一度戻るか?」
アッシュが緊張に滲んだ声でリアムに判断を仰ぐ。
「……任務は続行する」
リアムは隊旗から視線を上げると霧の奥を睨みつけた。
「第二騎士隊の安否を確認し、この森で何が起きているのかを突き止める。それが俺たちの任務だ」
「そうだな……まだ旗が見つかっただけで何もわかっていない」
アッシュの言葉にクロエとフィンも同意して無言で頷く。
彼らの目には隊長への信頼と決意が浮んでいる。
俺は彼らから離れた大樹の陰で、その様子を静かに見守っていた。
(いい判断だ。あいつらは自分たちのやるべきことを理解している。だが――)
弟子たちの船長を感じつつ、同時に俺はこの森に漂う違和感を捉えていた。
「おい、どういうことだ……」
アッシュが訝しげな声を上げた。
「狼の死体が……消えてる」
彼の言葉に全員がハッとして周囲を見回す。
確かに先ほどまでそこにあったはずの七体の霧狼の亡骸が、一体残らず消え失せていた。
血の匂いすら霧の中に溶けてしまったかのように鼻腔にすら何も感じない。
(……なるほどな)
俺は霧の奥を睨みつけながら思考を巡らせる。
(ゲームでは倒したモンスターの死体は光の粒子となって消えるのがお約束だ。だがゲームが現実となった今では、俺が知る限り倒された魔物の亡骸は消えずに残る……それがこの世界の理のはずだ。だとすればこれは……何者かが意図的に痕跡を『消している』ということか)
つまり俺たちの知らない未知の何かがこの森を支配している。
「陣形を維持したまま前進する。フィン、索敵を怠るな。アッシュ、クロエ、前後左右の警戒を密にしろ」
リアムの的確な指示の下、四人は再び霧の中へと足を踏み入れていく。
森の奥へ進むにつれて霧はさらにその濃度を増していった。
フィンが苦しげに顔を歪める。
「……ダメです隊長。霧の魔力が強すぎて索敵が……範囲が半分以下に……」
「くそっ……」
リアムが忌々しげに舌打ちをした。
フィンの報告はこの部隊の生命線である彼の眼が半ば潰されたに等しい。
こうなってしまっては彼らは手探りで進むしかなかった。
そして数十分後。クロエが不意に足を止めた。
「……おい。なんだありゃ」
彼女の視線の先、霧がわずかに晴れた開けた場所にそれはあった。
第二騎士隊の野営地の跡……だがその光景は惨劇という言葉ですら生ぬるいほど凄惨なものだった。
引き裂かれたテント、へし折られた剣、そして地面に飛び散ったおびただしい量の血痕。
しかし奇妙なことに、そこに死体は一つもなかった。まるでそこにいた人間だけが神隠しにでもあったかのように。
「……ひどい」
フィンが口元を押さえて嗚咽を漏らす。
アッシュも歴戦の傭兵であるクロエですらその異常な光景に言葉を失っていた。
リアムは冷静に、しかし険しい表情で現場の痕跡を調べ始めた。
「……争った跡がある。だが一方的だ。これは戦いじゃない……『狩り』だ」
彼の言う通りだった。残された剣の傷跡や地面の足跡から、第二騎士隊がほとんど抵抗らしい抵抗もできずに蹂躙されたことが見て取れる。
「だが霧狼の仕業じゃない。奴らはもっと獲物を食い散らかすはずだし、いくら不意を突かれたといっても第二騎士隊ほどの部隊が一方的にやられるとは考えられない。それにこんなに綺麗に、跡形もなく……」
リアムは指揮官として必死に状況を分析し、結論を導き出そうとしていた。
彼の頭の中に少し前に起こった出来事が蘇る。
「まさか……さっきのあれも?」
少し前に彼らは霧狼の死体が跡形もなく突然消え去るという似たような経験をした。
そして彼は一つの可能性に行き着く。
「だとすれば奴らは今もこの霧のどこかに潜んで俺たちを観察しているかもしれない」
リアムはなるべく冷静になろうと心がけながら仲間たちに向き直る。
「作戦を伝える。これより我々は防御陣形を組み、敵の次の襲撃を待ち受ける。フィン、お前の最大火力で周囲の霧を吹き飛ばせるか」
「は、はい。ですが詠唱に時間が……」
「その時間は俺たちが稼ぐ。全員、フィンを守れ」
それは指揮官として論理的で、そして最も堅実な判断だっただろう。
だが俺だけがその判断が致命的な過ちであることに気づいていた。
(違う。リアム、貴様はまだ敵の本質を理解していない)
俺には彼らが見落としている決定的な痕跡が見えていた。
野営地の隅、大樹の幹に刻まれたいくつかの深い爪痕。
それは霧狼のそれとは明らかに違う、もっと大きくそして知性を感じさせる三本の平行線。俺はそのサインに見覚えがあった。
(間違いない。あれはアークス・サーガの後期アップデートで追加された濃霧エリアのレアモンスター『霧幻の狩人』が残すマーキングだ)
奴はプレイヤーを特定の罠へと誘導し、恐怖させ、追い詰めてから狩ることを楽しむ、極めて狡猾な敵だった。
それに対してリアムの作戦は防御を固め敵を待ち受けるというもの。
それは狩人が仕掛けた罠の中心で「さあ狩ってください」と宣言するようなものだ。
(仕方ない。最後まで手を出すつもりはなかったが少しヒントを与えてやるか)
俺は足元に転がっていた小石を拾い、指で弾いた。
小石は正確にリアムの足元へと飛び、カツンと乾いた音を立てる。
「……?」
リアムが訝しげに音のした方を見る。
俺は霧に紛れて姿を隠したまま、魔力を込めた声を彼にだけ届くように囁いた。
「――声を出さずに聞け、リアム。狼は群れで狩る。だがこの惨状は『狩り』ではない。『遊び』だ」
「……っ」
リアムの身体が硬直した。
俺は続ける。
「奴らはお前たちの『常識』を待っているぞ」
俺の言葉にリアムはハッとしたように目を見開いた。
防御を固めて待ち受ける。それは騎士としてのあまりにも常識的な判断だ。そして敵はその常識をこそ待っているのだとしたら。
リアムは額に冷たい汗を滲ませながらフィンに告げる。
「フィン、この周囲で一番霧の魔力が濃い所を探してくれ」
「えっ……はい、わかりました」
フィンが目を閉じて探査魔法に集中する。しして暫くしてその細い指を森の1点へ向けた。
「いったいどういうこと?」
「そこになにかあるってのか」
彼は仲間たちが訝しげに自分を見つめる中、先ほど下したばかりの命令を即座に覆す。
「作戦を変更する」
彼の声は緊張で震えていた。
「全員、俺に続け。――今からこの森で最も危険な場所へと突っ込む」
それは常識外れの自殺行為にも等しい決断。
だがそれこそがこの絶望的な状況を覆す唯一の活路だと、彼は確信していた。




