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第27話 黒霧の森と、観察者と、最初の試練と

 俺たちが黒霧の森の入り口に到着したのは出撃から半日が経過した頃だった。

 その場所は、まるで世界から拒絶されているかのように不吉な静寂に包まれていた。

 天を突くような木々が鬱蒼と生い茂り、その根元からは乳白色の濃い霧がまるで生き物のように絶えず湧き出している。


「……ひっ」


 隣にいたフィンが小さく息を呑んだ。

 無理もない。この霧はただ視界を遮るだけではない。

 方向感覚を狂わせ、精神に直接圧力をかけてくるような陰鬱な魔力を帯びていた。


「……おいおい、マジかよ。こりゃ一歩先も見えねえぞ」


 アッシュが珍しく気だるげな態度を崩し、警戒を露わにする。

 クロエは逆に目を爛々と輝かせ、二本の短剣を握りしめていた。


「……いい匂いがするな。血と死の匂いだ」


 リアムは作戦机の上で何度もシミュレートしたであろう戦術マップを頭の中に思い浮かべながら仲間たちに最終確認をしようとした。

 その彼が口を開くよりも早く、俺は一歩前に出た。


「これより貴様らの本当の試験を始める」


 俺の言葉に四人の視線が突き刺さる。


「この先、俺は貴様らの戦いに一切介入しない。助言も助力もしない。俺はただ貴様らの後ろから、その戦いぶりを観察させてもらう」

「……どういう意味だ」


 リアムが訝しげに眉をひそめる。


「言葉通りの意味だ。これは貴様らの任務だ。貴様らが自分たちの力で乗り越えなければ意味がない。俺はただの審判役に徹する。貴様らがただのガラクタの集まりなのか、それとも磨けば光る宝なのか。その価値をこの眼で見極めさせてもらう」


 俺の言葉に四人の顔に緊張が走る。

 俺は続ける。


「だが一つだけ約束しよう。俺は貴様らを死なせはしない。もし貴様らの力が及ばぬ真の絶望が訪れた時……その時だけは俺が介入する。だがそれは同時に貴様らの『敗北』を意味すると思え」


 それは突き放すような言葉であり、同時に絶対的な信頼の証でもあった。

 リアムは俺の真意を理解したようだった。彼は一度だけ強く頷くと仲間たちに向き直った。


「聞いたな、お前ら。教官殿は俺たちを信じて後ろで見ているそうだ。……無様な戦いは見せられねえな」


 彼の言葉にはもはや皮肉の色はなかった。


「……突入する。クロエが前衛、アッシュは右翼、俺は左翼。フィンは中央、俺たちの真後ろを維持しろ。絶対に離れるな。ここからはお前の眼が俺たちの生命線になる」

「は、はい」


 フィンの震える声にリアムは一度だけ振り返った。


「……大丈夫だ。俺たちを信じろ」


 その号令と共に四人は覚悟を決めた表情で霧の中へと足を踏み入れていった。

 俺はそんな彼らの背中を見送ると、ふっと身体から力を抜き、まるで影が揺らめくように後方の霧の中へと姿を消した。

 ここからは観察者の時間だ。


 ◇     ◇     ◇


 森の中は想像を絶するほどの濃霧だった。

 数メートル先は完全な白に閉ざされ、聞こえるのは自分たちの息遣いと湿った土を踏む足音だけ。

 時折、霧の向こうで何かが動く気配がするが、その正体を確かめることはできない。


(……来たな)


 俺の『ゲーマーの眼』が霧の中に潜む複数の敵性反応を捉えた。

 それはこの森の主である霧狼(ミストウルフ)の群れだった。

 奴らはこの霧を地の利とし、獲物を完全に包囲してから一斉に襲いかかる狡猾な狩人だ。


「……来ます」


 俺とほぼ同時にフィンが震える声で報告した。


「数は……七。右前方から三、左から二、そして……真後ろに二です」

「なにっ」


 リアムの顔に緊張が走る。

 後方にも敵がいる。完全に包囲されている。


「クロエ、正面の三体を引きつけろ。アッシュ、左の二体を頼む」


 リアムが即座に指示を飛ばす。


「フィン、背後は任せたぞ。俺は右翼のアッシュを援護する」


 そのリアムの指示が終わるか終わらないかのうちに、霧の中から灰色の影が音もなく飛び出してきた。

 霧狼(ミストウルフ)だ。その名の通り霧に溶け込むような体毛を持ち、赤い瞳だけが不気味に爛々と輝いている。


「しゃあ、来たぜぇ」


 クロエが獣のような雄叫びを上げて正面の三体へと突進していく。

 アッシュもまた神速の抜刀術で、左翼から迫る二体の狼の喉を切り裂いた。

 だが問題は後方だった。


「ひっ……」


 フィンは背後から迫る二体の狼に気づきながらも、恐怖で身体が竦み動けずにいた。詠唱が始まらない。

(まずいな。ここでフィンが機能しなければ、陣形は一瞬で崩壊する)


 狼の一体がフィンの無防備な背中へと牙を剥いて飛びかかった。

 もう間に合わない。

 誰もがそう思った、その瞬間だった。


「――させるかよ」


 クロエが信じられないほどの速度で反転し、フィンと狼の間に割り込んでいた。

 彼女は正面の敵を一体屠った後、残りの二体をリアムに任せ即座にフィンの救援へと向かったのだ。

 ガキンと甲高い音が響く。

 クロエの短剣が狼の牙を弾き返す。


「……おい弱虫くん。いつまで震えてやがる。さっさと撃て」


 クロエは背後のフィンを振り返りもせずに悪態をつくように言った。

 その背中は確かにフィンを守るための「盾」だった。


「……は、はい」


 フィンはハッとしたように我に返ると、震える手で杖を構えた。

 彼の脳裏に孤児院の子供たちの笑顔が蘇る。


(僕の魔法は……誰かを守るために……)


 彼の詠唱が始まる。

 その時間を稼ぐようにリアムとアッシュが、残りの狼たちを的確に仕留めていく。

 リアムの指揮はもはや盤上の遊戯ではない。仲間の位置、敵の数、そしてフィンの詠唱時間。その全てを計算に入れた本物の戦術だった。

 やがてフィンの詠唱が完了する。


「【光の矢(ライトアロー)】」


 彼の杖先から放たれた数条の光が最後の狼たちの眉間を正確に撃ち抜いた。


 ◇     ◇     ◇


 戦闘が終わり、森に再び静寂が戻る。

 四人は肩で息をしながらも、誰一人として欠けることなくそこに立っていた。


「……へっ。やるじゃねえかお前ら」


 アッシュが初めて仲間を認めるような言葉を口にした。

 クロエはフィンに向かって「次しくじったらてめえから食うからな」と悪態をついているが、その声にはどこか安堵の色が滲んでいる。

 リアムはそんな仲間たちの姿を静かに見つめていた。

 そして俺がいるであろう後方の霧に向かって、小さく、しかし確かな声で呟いた。


「……見てるかよマスター」


 俺は霧の奥で静かに頷いた。

 最初の試練は突破だ。

 だが彼らが安堵のため息をついた、その時だった。

 アッシュが倒した狼の足元に何かを見つけた。

 それは泥と血にまみれた布切れだった。


「……おい、なんだ、こりゃ」


 彼がそれを拾い上げ泥を拭う。

 そこに現れたのは見慣れた紋章。

 第二騎士隊の隊旗の一部だった。


 その場にいた全員の顔から血の気が引いた。

 これはただの魔物の縄張りではない。

 エリート部隊を壊滅させた何かが、この霧の奥でまだ息を潜めている。

 彼らの本当の戦いはまだ始まったばかりだった。

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