第10話 聖女と孤児院と、泥遊びの成果と
城下の孤児院。
そこは王都の華やかさとは無縁の、活気とそして貧しさが同居する場所だった。
聖女セレスティアは生まれて初めて足を踏み入れるその場所に戸惑いを隠せずにいた。純白の訓練服が周囲の煤けた風景から浮き上がっている。
「……マスターは、本当にここで遊べと?」
「左様です、聖女様。我々もその真意は測りかねますが……」
護衛の神殿騎士が苦虫を噛み潰したような顔で答える。
その時だった。
「わーい、きれいなおねーちゃんだ」
「なにしてあそぶのー?」
孤児院の子供たちが物怖じすることなくセレスティアの周りに集まってきた。泥のついた小さな手が彼女の汚れない訓練服に触れる。
「ひっ……」
セレスティアは思わず身を引いた。
彼女はその半生を清浄な神殿の中で過ごしてきた。不潔というものに免疫がないのだ。
神殿騎士が慌てて子供たちを追い払おうとする。
「こら、無礼者。聖女様のお召し物に触れるでない」
だがセレスティアはその手をそっと制した。
彼女は俺の言葉を思い出していた。
『自分の手で泥をこね、自分の足で走り、子供たちと同じ目線でただ遊べ』
(……マスターを信じると決めたのだから)
セレスティアは覚悟を決めると、ぎこちない笑みを浮かべて子供たちに向き直った。
「……わたくしはセレスティアと申します。皆さんはいつも何をして遊んでいるのですか?」
それが聖女セレスティアの、生まれて初めての「泥遊び」の始まりだった。
◇ ◇ ◇
初日は惨憺たるものだった。
子供たちに誘われるままに泥団子を作ろうとすれば泥の感触に悲鳴を上げそうになり、鬼ごっこをすれば数分で息が上がって動けなくなる。彼女の身体は聖なる力に満ちてはいるが、俗世の遊びに対応できるほど鍛えられてはいなかった。
「聖女様、もうおやめください。このようなこと、貴方様がなさるべきことでは……」
神殿騎士が見るに見かねて進言する。
だがセレスティアは首を横に振った。
「いいえ。これもマスターが与えてくださった試練なのです」
彼女は泥だらけになった自分の手を見つめる。
神殿にいればこんな汚れとは無縁だった。常に清浄で、常に敬われ、常に孤独だった。
それに比べてここは……。
子供たちの笑い声が響き、泣き声が響き、生命のエネルギーが満ち溢れている。
汚れてはいるが温かい。
二日目、三日目と経つうちに彼女の中に変化が訪れた。
泥で服が汚れることにも汗をかくことにも抵抗がなくなっていた。
そして四日目の午後。
一人の少女がおずおずとセレスティアの前に泥団子を差し出した。
「おねえちゃん、あげる」
それはいびつで、今にも崩れそうな不格好な泥団子だった。
セレスティアは一瞬ためらった。
だが少女の曇りのない瞳を見つめ、そっとそれを受け取った。
「……ありがとう。とても嬉しいです」
彼女がそう言って微笑んだ瞬間、何かが弾けた。
それは神殿で見せる慈愛に満ちた聖女の微笑みではなかった。
心の底から喜びが込み上げてくるような、年相応の少女の無邪気な笑顔だった。
その笑顔を見た子供たちはきゃっきゃと声を上げて喜び、次々と彼女の周りに集まってくる。
セレスティアは子供たちと一緒になって地面を転げ回り、いつの間にか自分も心からの笑い声を上げていた。
神殿騎士たちはそんな聖女の姿を信じられないものを見る目で、ただ呆然と見守るしかなかった。
◇ ◇ ◇
そして運命の一週間が過ぎようとしていた最後の日。
事件は起こった。
一人の少年が鬼ごっこの最中に勢い余って木に激突し、腕を強く打ってしまったのだ。
「うわーん」
甲高い泣き声が響く。少年の腕は見る見るうちに赤く腫れ上がっていた。おそらく骨にヒビでも入っているのだろう。
「……っ」
セレスティアは咄嗟に駆け寄った。
そして無意識に、いつものように祈りを捧げ治癒の力を発動させようとした。
神殿騎士たちの顔に緊張が走る。
(まずい、また力が暴走する……)
だが。
セレスティアの手のひらから放たれたのは、以前のような破壊的な光の奔流ではなかった。
それはまるで春の陽だまりのように、穏やかで温かい光。
その光が少年の腕を優しく包み込むと、腫れはすっと引き痛みも消え去った。
完璧に制御された【癒しの光】だった。
「……あれ?」
少年はきょとんとした顔で自分の腕を見つめている。
そしてセレスティアもまた自分の手のひらを見つめ、呆然としていた。
「……できた。私にも、できた……」
彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
神殿騎士たちは目の前で起きた奇跡に、ただ立ち尽くすしかなかった。
セレスティアは天を仰ぐ。
彼女の脳裏にあの鬼教官の言葉が蘇っていた。
『力は、制御するものではない。理解し、受け入れ、そして解き放つもの』
(そうか……。これがマスターの言っていた……)
泥にまみれ子供たちと触れ合うことで彼女は初めて、自分の身体とそして力の「加減」を理解したのだ。
力とはただ大きく放てばいいものではない。相手に寄り添い、必要な分だけを優しく届けるものなのだと。
「なんと深遠な教え……。マスター……貴方は、やはり……」
聖女セレスティアの俺――カイエン・マーシャルへの尊敬は、この瞬間、狂信的なまでの信仰へと変わった。
もちろん俺がただ原作ゲームのサブクエストをなぞっただけだとは、彼女は知る由もなかった。




