偶然の出逢い
遥が仕事を終えて古書店を出た頃には、すっかり陽も沈み、銀座のネオンが明るく瞬いていた。
家路を急ぐ人たちが並木道を足早に歩いている。
何気なく通り掛かった画廊の前で遥は、あるポスターに釘付けになった。
『高瀬 湊 個展 ーやわらかな光の中でー』
高瀬 湊……。
久しぶりに目にした懐かしい名前。
あの湊先輩の個展なの?
遥は、しばらくその場から動けなかった。
この画廊のガラスの扉の向こうには湊先輩がいるのかもしれないーー。
遥の心臓は、早鐘のように打ち始めた。
入ってみようか?
どうしよう?
数分迷った後ーー
遥は『ギャラリー木洩れ日』の扉を思いきって押した。
落ち着いた間接照明に照らし出された室内は、柔らかな空気に満たされていた。
心地よいクラシック音楽が流れる中、遥はギャラリー内を見渡した。
白壁に美しい色調の水彩画が何枚も掛けられているのが見えた。
木造りの床を進んでいくと、壁際の机に芳名帳が置かれていた。
髪の長い美しい女性が遥の側に近づいてきた。
「今日は、よくお越しくださいました。
よろしければそちらにお名前をお書きください。」
「はい……。」
遥はペンを取り、名前を書き始めた。
緊張して少し手が震えてしまい、思ったように字が書けない。
何とか名前と住所を書き終えた後、誰かが扉を開けて入ってきた。
背の高い男性が、自分の横を通り過ぎる。
「奈保子さん、ありがとう。
待たせたね。」
その男性が遥を案内してくれた女性に話しかけた。
「あっ、お帰りなさい。
高瀬さんがいらっしゃらなかった間、数名の方がおみえになりましたよ。
芳名帳にお名前、書いて頂きました。」
「そう。」
笑顔で答える男性の横顔を見て、遥は間違いなく湊先輩だと思った。
美しい女性と先輩は、同じぐらいの年頃だろうか?
湊先輩は、彼女に近づき楽しげに話し続けている。
談笑する二人はとても仲が良さそうに見えた。
そんな二人を見るうちに遥は、何だか気後れしてしまった。
先輩は、まだ私に気がつかない……。
自分から話しかけようか?
でも……。
それは、今の私には出来ない。
芳名帳が置かれた机の前でしばらく佇んでいた遥だったが...…
踵を返してギャラリーの扉を開けた。
扉が開く音を聞いて、二人がこちらを怪訝そうに見たような気がする。
しかし、遥は振り返ることも出来ずにそのまま並木通りに出て歩き出していた。
湊先輩には彼女がいたんだーー。
そう遥は思って地下鉄の階段を急いで降りた。
何を期待していたんだろう?
私は……。
膨らんでいた風船が萎んでいくように遥の気持ちも萎えてしまった。
そりゃあ、何年も会っていなかったんだし、当然よね。
遥は、心の中で呟いた。
ちゃんと湊先輩の絵を見ることも出来なかった自分を情けなくも感じた。
電車がトンネルの中に入る。
ゴーッ。
足元が少し揺れた。
そのままだと体のバランスを崩しそうになり、つり革を握り直した。
真っ暗な窓の外を見て遥は、涙ぐんでいた。
観覧車が見せてくれたあの映像は、何だったんだろう?
未来の私は湊先輩といたんじゃなかったの?
いくら問いかけても、誰も答えてくれる人はいないーー。
遥自身、暗いトンネルの中に迷い込んでしまったかのようだった。
最寄り駅で降りた遥は、商店街を抜けて自分のアパートまでとぼとぼと歩いた。
住宅街は、静かで遥の脇を走り去る宅配ピザのバイクの音が辺りに響き渡った。
スマホを見ながら歩く男子学生。
犬の散歩をする年配のご夫婦。
犬の首には光る首輪がつけられていて、歩く度にピカピカと光を放った。
明かりが灯された窓からは、夕飯の香りがふわりと漂ってくる。
街は、今日も何も変わらずに動いているーー。
でも、私は……。
遥は、言い知れぬ孤独を感じながら、アパートの階段を上った。
アパートの扉を開けて自分の部屋に入り、鍵を閉めた後、遥はしばらくそこにしゃがみこんでしまった。
泣きたくなったが、素直に泣くこともできない。
「疲れたなぁ……。」
遥は、一人呟いた。
よろよろと立ち上がり、そのまま寝室に向かった。
もう、何も考えたくなかった。
遥はベッドに倒れ込んだまま……しばらく目を閉じていた。
すると……。
LINEの着信音が聞こえた。
誰?
遥は起き上がり、バッグからスマホを取り出した。
スマホのLINEの通知を見るとーー
1件の着信。
開いた画面には、長い間やり取りがなかった人からのメッセージが届いていた。
遥は、その名前を見て
「まさか……。
嘘でしょ?」
と言いながら、スマホを握りしめる手に力が入った。