未来を継ぐもの
「遥、湊さん、今日は連れてきてくれてありがとう。
湊さんがあのスケッチブックを野口さんに渡してくれなかったらこの展覧会はできていなかったわよね。」
遥の母は、『一条 翠』の回顧展に訪れると夫の作品を前にして湊たちに感謝の言葉を述べた。
そして、夫の写真を見つめてしばらく動かなくなった母だったが……
「あの……失礼ですが、もしかして成瀬 絵理子さんではないですか?」
とある男性に声をかけられて、静かに振り向いた。
「はい、私は成瀬ですが……。」
「やっぱり。
私は、成瀬君と昔、一緒に絵を描いていた野口遙人と申します。」
「あなたが、野口さん。
この度は大変お世話になって……。」
「いえ、あのスケッチブックを高瀬さんから託されて、こうして彼の回顧展を開くことができて、私も凄く嬉しく思っているんですよ。
彼とは親友と言っても良い仲でしたからね。
あなたのことは、成瀬君からずっと聞かされていたんです。
素晴らしい女性だと。」
「まぁ、主人がそんなことを?
お恥ずかしいわ。」
「愛した人のためなら、画家をやめる決心がついたと言っていましたが、最期まで彼はご家族をスケッチされていたんですね……。」
母は野口にそう言われて、自然と涙が溢れた。
「私のせいで主人は、絵を本格的に描くことを辞めてしまって本当に申し訳なかったです。」
「成瀬君の画家として活躍した時間は短かったかもしれない。
でも、あなたに出会ってお嬢さんにも恵まれて……成瀬君は幸せな人生を送れたんだと思いますよ。
あのスケッチブックに描かれたあなたたちご家族の絵を見たら、彼がどんなに幸せに満ちた時間を過ごしていたのかがわかりますよ。」
野口はそう言うと微笑んだ。
「野口さんにそう言って頂けると救われます。」
「あっ、せっかくいらしたところだったのに足を止めさせてしまい、すみません。
どうぞゆっくり彼の絵を楽しんでくださいね。」
野口はそう言うと遥たちから離れていった。
「お母さん、野口さんとお話できて良かったわね。」
遥が母に声をかけた。
「そうね。
お父さんが仲良くしていた方にお会いできて嬉しかったわ。
何だか野口さんと話して、お父さんの気持ちが少しわかったような気がして安心したわ。」
今度は湊が野口と話し込んでいた。
湊は、この展覧会を開くために野口に度々会い、何年も話し合いを続けてきた。
一条 翠のスケッチブックが見つかってから、この回顧展が開かれるまでに実に8年以上の歳月が積み重ねられていたのである。
「野口先生、この回顧展を開催できたのは、先生のお力添えがあったからです。
本当にありがとうございました。」
「湊君、君も本当によくやってくれたよ。
成瀬も天国で君に感謝しているんじゃないかな?
君がいなければ、この回顧展はできなかったよ。」
野口にそう言われて湊も顔をほころばせた。
義父に会うことは叶わなかったが、湊は『一条 翠』のファンとして、また、義理の息子として立派にその役目を果たしていた。
「遥ちゃんは、本当に良い人と一緒になったわね。」
母がそうしみじみと言うと
「私もそう思う。」
と遥が笑みを浮かべながら母を見た。
こうして、母を父の展覧会に連れてこられて良かったと遥は心から思った。
そして、父の画家としての人生に再び光を当ててくれた湊と野口に感謝していた。
お父さん、たくさんの人がお父さんの絵を見てくれているよ。
良かったね、お父さん。
遥の脳裏にふと優しかった父の面影が浮かんだ。
あの観覧車に乗って一緒に笑っていた父ーー。
父の仕事が画家であったことを知った今、父と自分が芸術というもので結ばれていることに何か意味があるように思えている遥だった。
そして……
翼もまた、祖父の血を継ぐ者として芸術の道を歩み始めていく。
『一条 翠』の回顧展が開かれた後、翼は、猛烈に絵を描きたくなった。
陽菜の父、鈴木誠一に本格的に絵を習い出した翼は、めきめきとその才能を開花させていった。
高校生になった翼が描く絵は、どこか祖父の絵と重なるものがあった。
迷いのない線と色使い、物を見る目の繊細さーー
翼を教えている誠一もその才能に目を見張る時があった。
淡い色調には、翼の父である湊から継いだものも感じさせる。
やはり、血なのか……。
誠一は、翼の中に父親や祖父に似た感性があるのを感じていた。
しかし、翼本人は、悩んでいた。
いくら絵を描いても周りからは、上手い、さすがお父さんやおじいさんの血を継いでいると言われるが……
自分は、誰なのか?
自分らしい絵を描きたい、高瀬翼の絵だと言われるものを描きたいんだと思っていた。
「俺、何を描きたいんだろう?
先生、何だか分からなくなってきた。」
翼が誠一に訴える。
「そうだね……。
翼君が描きたいものが何なのか?
今まで生きてきて、君が何を見てきたのか、どう感じてきたのかが大事なんじゃないか?
それが分かった時に君の絵が描けるようになるんだと思うよ。」
誠一が静かに翼に話した。
翼は、教室からの帰り道、街を歩きながら誠一に言われたことを考えていた。
俺が見てきたもの……。
海も水田もどこまでも澄み渡る空もーー
いつも陽菜と一緒に見てきた気がする。
陽菜と見ながら、感じていたこと。
それを絵に込めたら良いのかな?
時には悲しい日もあった。
でも、この街の自然を見ていたら癒された。
祖父もそうだったのかもしれない。
おばあちゃんに出会ってからは、祖父は幸せを感じていたのかな?
お父さんもお母さんに出会ってこの街に来た。
見慣れた景色だと思っていたものがどれほど美しいものだったのかーー
今ならわかる。
誰かと一緒に眺めた景色、一人で誰かを想って眺めた景色。
ただの風景ではない、そこに自分の気持ちが込められた時に俺らしさが出るのかもしれない。
翼は、夢中で絵筆を動かした。
もう、そこに迷いはなかった。
高瀬翼の絵が生まれた。
誠一は彼の絵を見てそう思った。
自由でのびのびとした線、豊かで明るさを感じる色使いーー。
新しい時代の風が吹いている、そんな絵を翼は描き上げた。
翼は、父や祖父の想いを胸に抱きつつも新たな自分だけの想像の世界を広げていた。
彼の将来に向けての一歩が今、踏み出されたのである。




