父の過去
翼が8ヶ月になり、どこにでもハイハイで進んで行き、好きな所でつかまり立ちするようになった。
湊がアトリエで絵を描いていると隣の部屋から、翼が顔を出した。
「アーッ、アーッ。」
大きな声を出してニコニコとしている翼。
「おっ、翼か。」
湊が気がつき、翼の近くに行くと……
翼は、ハイハイして部屋の片隅にある本棚の所まで進み、棚につかまって立とうとし始めた。
「翼、危ない!」
湊が翼を抱き抱えると一冊の分厚い本が湊の足元に落ちてきた。
湊はゆっくりとしゃがんで画集を拾った。
「ん?誰の画集だ?」
翼を抱いたまま画集の表紙を見ると……
湊にも見覚えがある画家の名前がそこには書かれていた。
『一条 翠 ー青の静謐ー』
「これって一条 翠の画集じゃ……。」
遥が翼を追ってアトリエに入ってきた。
「翼、そこにいたのね。」
「あっ、遥ちゃん、今この画集が本棚から落ちてきたんだけれど……。」
「えっ、誰の画集?」
遥が湊から画集を受け取って表紙の名前を眺める。
「一条 翠……。
父の集めた画集の一つかしら?」
抱っこされていた翼が湊の腕の中で下に降りようとバタバタしている。
「この一条 翠は、俺の好きな画家の一人なんだ。
昔、大学の図書館でたまたま画集を見つけて……。」
遥が、暴れている翼を湊から受け取り、代わりに画集を彼に渡した。
「この画家は、青を使う画家として有名なんだけれど、ある時から画壇を去ってしまい、その後の活動は不明なんだよ。
画面全体から漂う静かな美しさが印象的で、一目見て、俺は好きになったんだ。」
「へぇ……
湊さんが好きな画家なのね。」
翼をあやしながら遥は答えた。
「ちょっと、お母さんに聞いてみるわね。
何でこの画集が家にあるのか……。」
リビングにいる母を遥が呼ぶと母がアトリエに入ってきた。
「なぁに?
あら、翼ちゃん。」
翼を見て母が微笑む。
「お母さん、この画集はお父さんのコレクションの一つ?」
「え……。」
母がちょっと驚いたように画集を見た。
「そこにあったのね……。
長い間見ていなかったけれど。
それは……
あなたのお父さんの画集よ。」
「えっ?」
湊と遥が同時に声をあげた。
「お父さんの画集って……
お父さん自身が描いたってこと?
だってお父さんは、成瀬 真一でしょう?」
「それは本名で、一条 翠は雅号よ。」
まさか、自分の父親が画家だったなんて、遥は全く聞かされていなかった。
「お父さんは普通の会社員だったのでしょう?
画家だったなんて……。
私、聞いたことなかった。
この家にはお父さんの描いた絵もないし、画材も残ってないし……。」
湊も驚いたように
「まさか、お父さんが一条 翠だったなんて……。」
と信じられないといった顔をしている。
「私が遥の父親と結婚する前ーー
私の父が画家になんて私をやれないって結婚を反対していてね。
真一さんも、絵を描きながら頑張っていたんだけれど……生活が成り立つ程のお金は得られなくて。
一応、賞をとったりはして、画集も何冊か出したわ。
でも、私と結婚するために筆を折ったの。」
「そうだったの……。」
「あなたのお父さんは、画家をやめたのは、私のせいじゃないって言ってくれたけど。
どうなのかしらね?
本当は続けたかったのかもしれない。
だから、苦しくて画材も何もかも処分してしまって……。
見たくなかったんでしょうね。」
「お父さん、辛かったわね。」
「えぇ。
でも、あなたが産まれたら凄く喜んだのよ。
私と結婚して良かったって。
そうじゃなきゃ、こんな可愛い子に会えなかったって言ってたわ。」
そう言って、母は遠い目をした。
父のことを思い出しているようだった。
「やっぱり、絵だけで食べていくって凄く大変だから。
湊さんなら、わかってくれるかしら?」
「はい。
よくわかります。
私も会社員はなかなか辞められなくて……。
でも、自分が好きな画家の一条 翠が遥ちゃんのお父さんだったなんて……。
何度も言うようですが、とても驚きました。」
「あなたが、主人の絵を好いてくれていたなんてね。
遥と結婚することになったのも何かのご縁かしら?」
遥も父の過去を初めて知って、何か特別なものを感じていた。
その後、翼がお昼寝をしている時に遥は、母と二人でお茶を飲んでいた。
母は湯飲みを手で包みながら……
「遥ちゃんにいつ、お父さんが画家だったことを打ち明けようかとずっと迷っていたのよ。
でも、それは湊さんも翼もいる、今だったのね。
何だかお父さんが、今だよって言っている気がするわ。」
と話した。
「そうなの?」
「えぇ。
以前、あなたに小説家になる夢を諦めないでって言ったことがあったでしょ。」
「あったわね、そんなこと……。」
「何故そう言ったかと言うと、お父さんのことがあったからよ。
お父さんが生活のためとは言え、道半ばで画家として大成することを諦めてしまったこと。
そのことを私も残念に思っていたから。」
「うん。」
「あなたには、夢を諦めて欲しくなかったの。
お父さんが生きていたとしても、あなたには、そうしてもらいたかったんじゃないかな?」
「お父さん……今も私たちのことを見守っていてくれるかな?」
「そうだと思うわ。
私の父も……あなたのおじいちゃんね。
お父さんが病気になって若くして亡くなってしまったでしょ。
後で後悔していたの。
あんなに真一さんを責めるんじゃなかったって。
お父さんが画家としての活動をやめてしまったことにおじいちゃんも責任を感じていたみたい。」
「それは……
お母さんを守るためだったのよね。」
「そうなんだけれど……。」
「切ないわね。
それぞれの気持ちがわかるだけに。」
「本当にそうね。
でも、やっとこうしてあなたに話ができて良かったわ。
何だかスッキリした。
きっと遥ちゃんが湊さんと結婚したこと、お父さんは喜んでるわ。
翼が産まれたこともね。」
母はそう言うとほっとしたように遥を見た。
「私、お父さんの記憶があまりないんだけれど一緒に遊園地に行って観覧車に乗ったことは覚えているのよ。」
そう遥は話しながら、自分が発した『観覧車』という言葉にハッとした。
「あぁ、あの観覧車ね。
親子3人で乗ったわよね~。」
懐かしそうに母がその時のことを思い出していた。
遥は、夜になってから一人でパソコンを開き、地元の観覧車について、何かSNSにあがっていないかを調べてみた。
驚くことにそこには、観覧車で不思議な体験をした人の言葉が並んでいたーー。
『あの観覧車で懐かしい人を見た。』
『観覧車に乗ったら、自分のこれからを見た気がする。』
『人生に迷っていたけれど……観覧車に乗って良かった。
進むべき道がわかった。』
『あの観覧車、どうなってるの?
皆も同じ体験してる?』
「私だけじゃなかったんだ……。」
遥は、観覧車が色々な人に何かを教えてくれているように感じた。
自分もそうであったように……。
更に遥のこの考えが確信に変わる出来事が起きた。
職場から帰って来た母が少し慌てた様子で遥に話しかけてきた。
「遥ちゃん、皆が話していたんだけどね。
あの『潮風ドリームランド』の観覧車に変な噂があるらしいのよ。」
「えっ?どんな噂なの?」
「それがね、あの観覧車に乗るともう、会えないと思っていた人に会えたり……未来を見せてもらえるとか、色々あるみたいで……。」
「そうなの?」
「えぇ、はっきりとはわからないんだけれど。
都市……何だっけ?」
「都市伝説?」
「そうそう、都市伝説。」
遥は、地元でも噂になっているのだから、あの観覧車は特別な観覧車であることは、間違いないと思った。
勿論、悩みも何もない、幸せな人、普通に暮らしている人が観覧車に乗っても何も起こらないのかもしれない。
遥は、自分の身に起きた出来事をまだ、誰にも話せないでいた。
母がふと言った。
「私も観覧車に乗ったら、真一さんに会えるのかしらね。」
遥は、そうだとも違うとも言えなかった。
「どうなんだろうね?」
そう遥は、母に言った。
母がまた、父に会えるというか……父の姿を見られるのなら、乗せてあげたいとも思う。
でも、一人で乗らなければあの奇跡は起きないのか、誰かと一緒でも起きるのかーー
何もわからなかった。
母は、それっきり何も言わず、自分の部屋に入ってしまった。
父の過去の話を聞いてから、父がより身近に感じられるようになった。
父と母と乗った観覧車。
父は、私の幸せをきっと願っていただろう。
でも、長く一緒にいて私の将来を見届けることはできなかった。
そんな亡くなってしまった人や会えなくなってしまった人の想いもあの観覧車は乗せて回っているのかもしれないーー。
遥はそう考えると自分の経験したことが、全て結び付くようにも思えた。
湊さんと私も偶然出会ったわけではなく、運命だったとしたら……?
「遥ちゃん、何かあったの?」
背後から湊に声をかけられて、少し驚いて遥は振り向いた。
「あっ、ちょっと考え事してた……。
翼を見ていてくれてありがとう。
翼は?」
「さっきまで遊んでいたけど、今は寝てる。」
「そう。
じゃあ、今のうちに夕飯を作らなきゃ。」
遥はそう言ってキッチンに立った。
今日はカレーにしよう。
そう思って玉ねぎの皮を剥いていたが、心ここにあらずで皮を剥き過ぎてしまった。
遥は、今はもういない父の姿を思い浮かべ、また会えるのなら父に会ってみたいなと思った。
母もまた、同じ気持ちなのかもしれないーー。
観覧車の謎は深まるばかりだった。
しかし、遥は観覧車には誰かの想いが乗せられている……そう思えてならなかった。




