これからの二人
母が入院し、眠れぬ夜を過ごしていた遥のもとに病院から意識が戻ったと連絡が入った。
翌朝、遥は急いで母の元に向かった。
病室に入ると母がこちらを見ていた。
「遥ちゃん……昨日は迷惑かけてしまってごめんなさいね。」
遥が母のベッドに近づいて安堵の表情を浮かべた。
「お母さん、意識が戻って本当に良かったわ。
一時はどうなることかと思った……。」
「遥ちゃんとギャラリーの外に出て、歩き出したところまでは覚えているんだけどね。
その後目の前が真っ暗になってしまって……。」
「お母さん、無理していたのよ。
よく休まなきゃ。
貧血があるんですって。」
「貧血?
全然気がつかなかったわ……
自分の体なのにね。」
その時、病室の扉が開き、母の主治医となった女医の村上先生が入って来た。
遥の母の側まで近寄り、優しく話しかけた。
「具合は、どうですか?
成瀬さんは、重度の貧血があるので、しばらく入院して治療しましょうね。
お嬢さんには、昨日説明したのですが……
あなたには、心房細動があります。
それ自体は、今すぐ命に関わるものではありませんが、放置すると脳梗塞や心不全などの合併症を引き起こす場合があるので注意が必要です。」
「心房……細動?
それは、どうすれば良くなるんですか?」
母が聞いた。
「まずは、薬物治療を行いましょう。
ストレスも原因になりますから、少し普段の生活を見直された方が良いと思いますよ。
お嬢さんともよく話し合われてくださいね。」
村上先生は、遥と母にそう説明すると病室を出ていった。
「お母さん……。
もう、一人で無理しないで欲しいわ。」
「別に無理なんかしてないわよ。」
「いいえ、お母さんは、ずっと一人で一生懸命働いてきたでしょう?
これからは、もう少しゆっくりした方が良いわよ。」
「ゆっくりなんて性に合わないわよ……。」
「お母さん!」
遥が声を荒げた。
遥は、母が素直に自分の言うことを聞いてくれないことは、わかっていた。
自分が、実家に戻って母と暮らした方が良いのかもしれないーー。
遥は、段々そう感じ始めた。
でも、母と同居したら湊さんとはあまり会えなくなってしまう……どうしたら良いんだろう?
遥が考えあぐねていると……
病室の扉が開き、湊が入ってきた。
「どうしたの?
何か遥ちゃんの大きな声が聞こえてきたけれど……。」
「あっ、湊さん!」
遥が罰の悪そうな顔をしながら、湊を見た。
「まぁ……湊さん、わざわざすみません。
お忙しいでしょうに。」
「いえ、大丈夫ですよ。
会社には少し遅れて出社しますから。
それより、お母さんのお加減はいかがですか?」
「お陰様で少し楽になりました。
お医者様や遥に色々言われて……私、よくわからなくなってしまって……。
今まで通りの暮らし方じゃいけないのかしらね?」
「お母さん、まずは何も考えずにゆっくり休んでください。
僕も遥さんと話してみますから。」
「そう?
それでは、よろしくお願いしますね。」
遥の母は、そう言うと目をつむった。
「遥ちゃん、ちょっと……。」
湊に促されて病室の外に出た遥。
「今、お母さんをあまり刺激しない方が良いかもしれないよ。
お疲れだろうし……。」
「それはそうなんだけれど。
とにかく母のことが心配でつい……。
もう、母を一人暮らしさせることはできないわ。
かといって、母が東京に来て私と住むはずもないし……。
私、実家に戻らなきゃいけないかもしれない。
だから、湊さんとも一緒になれない気がしてきた。」
一気に遥はこう話すと目に涙を浮かべた。
「遥ちゃん、落ち着いてよ。」
湊が遥の背に手をあてて優しく撫でた。
「あのさ……考えたんだけど……。
俺たち、もう、結婚しない?」
遥は驚いて湊を見上げた。
「えっ?
湊さん、何を言ってるの?」
「結婚して、お母さんと一緒に住もうよ。」
遥は湊の言葉に驚いて言葉が続かない……。
「そんな……。」
「遥ちゃんからしたら、急な話だよね。
でも、昨日俺、遥ちゃんのお母さんが倒れて病院に運び込まれた時に思ったんだ。
遥ちゃんにとってお母さんは凄く大事な人だから、俺にとってもお母さんは大事な人になるんだよね。
俺は、これからお母さんと遥ちゃん……二人のことを守りたいなって思って……。」
「でも、湊さんには東京で仕事もあるんだし、そんなことできないでしょ。」
「遥ちゃんのご実家は、東京駅からだいたい1時間半位で着くし……通えないことはないよ。
最近は在宅勤務も認められているから、毎日出社しなくて良いかもしれないし……。
何とかなると思う。
一度、上司の人に相談してみるよ。」
「でも、湊さんのご実家で何と言われるか……。」
「あっ、それなら大丈夫だよ。
兄貴夫婦が実家で両親と同居してるんだ。
二世帯住宅建ててさ……。
だから、俺は、どこに住んでも自由なんだ。」
遥は、あまりのことにしばらく黙ってしまった。
やっと口を開くと
「ありがたいとは思うけれど……。
私、何だか急過ぎてついていけないわ。」
と言って湊を見た。
「うん、そうだよね。
でも、お母さんのことを考えたら、早い方が良いでしょ。
よく考えて答えを出してくれたら、嬉しいよ。
ただ、遥ちゃんは、古書店で働き続けるのは難しいかもしれないよね。
それは、残念だけど……。
今はお母さんのことを最優先に考えてあげられたら良いよね。」
湊が自分と母のためにここまで考えてくれていたことに驚きを隠せない遥だった。
湊が言うようにたった一人の肉親である母は、遥にとってかけがいのない人であることは間違いなかった。
母のために今出来ることーー。
それは、後回しには出来ない、今やるべきことなのかもしれない。
遥にとって古書店での仕事は楽しかった。
それを諦めるのは、少し寂しくも感じたが……
後で後悔しないためにも、これから遥は、母と一緒にいたいと思った。
そして……自分の隣には、湊がいてくれる。
これほど力強いことはない。
「湊さん、こんなに私たちのことを考えてくれてありがとう。
私も……
あなたの言う通りにしたいと思う。」
湊が思わず、遥の手を取ると、遥はその手を強く握った。
遥の瞳には、全てを受け入れる決意の灯りが点ったように見えた。
これからの二人が進む道には何が待っているのか……。
希望と期待と
そして、家族としての幸せとーー。
少しだけ欲張ってみても良いのかなと遥はそっと思った。




