思いがけない出来事
出版記念パーティーが無事に終わり、湊と遥が出口に立って出席者の一人、一人を丁寧に見送る。
「じゃあ、高瀬さん、遥ちゃん、またね。
今日は楽しかったわ。」
「奈保子さん、誠一さん、今日はありがとうございました。」
湊が夫妻にお礼を述べた。
しばらくすると湊の母も
「私たちもそろそろ帰りますね。
遥さん、お母様、お先に失礼します。」
と遥たちに笑顔で挨拶した。
「どうも失礼致します。」
遥の母が頭を下げる。
「お母さん、お父さん、また連絡するよ。
今日は来てくれて、ありがとう。
兄さんたちにもよろしく言ってね。
また、家に顔を出すよ。」
「じゃあな。
これで失礼するよ。
こんな場を設けてもらって、お前も立派になったなぁ。
やっと安心したよ。」
湊の父が笑顔で右手を少し上げた後、背を向けた。
「失礼致します。」
と遥も湊の両親が扉を出るまで頭を下げていた。
遥の母も
「私もそろそろ……。」
と言いながら、帰り支度を始めた。
「この絵本をいただけて嬉しかったわ。
湊さん、遥、今日はありがとう。」
記念の菓子折りと絵本が入った紙袋を手に下げて、遥の母が出口に向かって歩き出した。
その時、母の足元がぐらりと傾き、体全体がふわりと揺れた。
心配した遥が、母の側に駆け寄った。
「お母さん、大丈夫?
地下鉄の入り口まで、私送っていくわ。」
「大丈夫よ。」
母はそう言ったが、そのまま遥は母に付き添って外に出た。
夕方になり、銀座の通りには明かりが灯り始めた。
賑わう街の中を遥はふらつく母を必死に支えて歩いた。
地下鉄の入り口がもう少しという所で、母が急にしゃがみこみ、そのまま地面に倒れ込んだ。
母の顔色は血の気がなく、唇は紫がかっていた。
二人を心配して様子を見に来た湊が驚いて
「お母さん、大丈夫ですか!」
と遥の母の元に走ってきた。
おろおろして、
「お母さん、お母さん」
と母を起こそうとする遥に
「そのまま動かさない方が良いかもしれない。
今、救急車を呼ぶね。」
湊がスマホを取り出した。
3人の周りにはいつの間にか、人だかりができていた。
ギャラリーからは、編集者の小高さんも駆けつけ……
「まぁ、お母様、大変なことに……。
もう、救急車は呼ばれましたか?」
と湊の方を見た。
「はい、今呼びました。」
そう答える湊。
5分程すると救急車が到着した。
「お二人は、お母様に付き添ってください。
後は、私たちが残って片付けますので。」
小高さんが、救急車に乗り込む遥と湊に伝えた。
「はい。
宜しくお願いします。」
湊が小高にそう言うと救急隊員が後ろの扉を閉めた。
救急車がサイレンを流しながら、銀座の通りを走っていく。
酸素マスクや心電図モニターが付けられて眠っている母。
母を見守る遥の顔は青ざめていた。
「どうしよう……
私が無理させたせいかもしれない……。」
「そんなことないよ、遥ちゃん。
きっとお母さん、大丈夫だから。」
そう言うと湊は、遥の手を握った。
近くの大きな病院に救急車が到着し、母がストレッチャーに乗せられたまま、慎重に車外に出される。
そのまま、ガラガラと音を立てて、救急外来の入り口から病院内に運ばれていった。
湊と遥もそれに付き添って中に入った。
病院の救急外来の受付で遥は、母について必要事項を書かされた後……
「娘さんですか?
お母様は、これから検査に入りますので、しばらくそちらの椅子にかけてお待ちください。」
と看護士さんに声をかけられた。
遥は、湊と並んで腰掛けたまま、結果を待った。
40分くらい経った頃だろうか……。
医師から呼ばれて、遥は診察室に入った。
湊も遥に続いて中に入り、小さな椅子に腰掛けた。
「お母様の検査結果ですが……
重度の貧血がみられます。
また、不整脈もあるので更に詳しい検査をしてみないと……。
一週間ほど入院して頂きます。」
「貧血ですか?」
「はい。
大分前から貧血になられていた可能性があります。
早速治療を開始しましょう。
お母様の場合、心房細動による不整脈である場合も考えられるので、慎重に経過を診ていこうと思います。」
「心房細動……。」
聞きなれない病気の名前に動揺する遥は、不安で胸がいっぱいになっていた。
「どうかよろしくお願いします。」
呆然としていた遥の代わりに湊が医師に挨拶して、診察室を二人は後にした。
「娘さんは、お母様の入院手続きをお願いしますね。
保険証と診察券があれば確認させて頂きたいのですが……。」
看護士さんに呼ばれて、遥は受付に向かう。
「保険証は、今持っていなくて……
診察券は今日が初診なのでありません。」
「そうですか。
診察券は今すぐお作りしますね。
保険証は、入院中にお持ちください。」
「わかりました。
ここにサインすれば良いですか?」
「お願いします。あっ、こちらにも……。」
遥は、何枚もの書類にサインした。
その後、病室に行くとベッドに眠っている母の白い顔が見えた。
「お母さん……。
こんなことになってしまって……。」
遥が涙ぐみながら、母の手を握った。
いつも明るく笑っていた母の顔が浮かんだ。
「入院することになってしまったけれど、お母さん、すぐに診てもらえて良かったね。」
湊がそう言って遥を慰めた。
「湊さん、今日は付き添ってもらってありがとう。
私一人だったら、どうなっていたか……。」
「俺に役に立つことなら、何でもするから言ってね。」
「うん、また色々お願いするかも……。
私、今日は母の側にもう少しいるので、湊さんは自宅に帰ってね。」
「遥ちゃん、俺、家まで送っていくよ。」
「そんな……。」
遥は、湊の優しさが身に染みた。
一人になるのは、本当は心細い。
二人は、病室でしばらく黙って一緒にいた。
数時間前まで、晴れやかにギャラリーでたくさんの人に挨拶していたのが嘘みたいだった。
これから、母のことをどうしたら良いのだろう?
遥は、眠っている母の顔を見ながら思いを巡らせていた。
一方、湊もこれからの自分と遥のことを考え始めていた。
1時間ほどすると……看護士さんが病室に入ってきて、母の点滴を変えたり、血圧を計ったりしてくれた。
「ここは、私たちに任せてお二人はそろそろお帰りくださいね。
何かあれば、お電話しますので。」
「それでは……よろしくお願いします。
遥ちゃん、一旦家に帰ろう。」
湊に促されて遥もやっと立ち上がった。
湊が遥のアパートまで一緒にタクシーに乗って送ってくれた。
遥が車から降りるとタクシーに乗ったまま、湊が
「遥ちゃん、また連絡するね。」
と言って笑顔で小さく手を振り、車は夜の街に消えていった。
遥は、家に帰って横になるとくたくたに疲れているのを感じた。
肩が重く、目を閉じればすぐに眠ってしまいそうだった。
一方湊も、遥が動揺していた姿を思い出し、胸が苦しくなった。
みんなが幸せになる方法を探っていきたいーー
湊は、そう考えていた。
二人の長い1日が終わろうとしていた。




