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過去の私

ふと目を上げるとゴンドラの窓には、思いがけず大学時代の自分が映っていた。


遥がいるのは、大学の図書館。

見慣れた書棚が見える。

そこは忘れられない出会いの場所ーー。


遥は、国文学科だった。

レポートを書くために必要な本を探しに図書館に来ていたのだが、なかなか見つからない。

書棚の前に立っていたら、誰かとぶつかった。

足元に大きな本が数冊落ちた。


「あっ、すみません!」


慌てて本を拾う男性がいた。


「前をよく見ていなくて……。

大丈夫でしたか?」


「は、はい。

大丈夫です。」

遥は驚いて相手の顔を見た。


男性にしては色白で整った顔立ちの青年がこちらを見ていた。


誰かの画集?

遥は一瞬見えた本を見て心の中で呟いた。

彼が落とした本には見覚えがあった。

絵が好きだった遥の父が集めていた画集もちょうどこのぐらいの大きさで重厚な作りだった。


「あの……。美術系の本ですか?」

思わずその人に尋ねると


「うん。俺は芸術学科だから、イラストを描く参考にするんだ。」

彼は爽やかな笑顔をこちらに向けた。


それが遥より一年先輩の高瀬湊との出会いだった。


窓に映る遥と湊先輩。


その映像を見ながら、遥の脳裏には懐かしいあの頃の記憶が蘇った。


「湊先輩……。」


もう、何年会っていないのだろう?


湊先輩とは、図書館での出会いの後、時々大学構内で会うようになり、親しくなっていった。


「私、将来作家になりたくて……。

今、自分で小説を書いているんですよ。」


遥がそう打ち明けると


「本当に?それは良い夢だね。

遥ちゃんが作家になったら、俺が最初の読者になるからね!」

と湊先輩は優しく微笑みながら言ってくれた。


「先輩の夢は?」

遥も湊先輩に聞いてみた。


「俺はイラストレーターかな?

今は水彩で風景や動物なんかを描いているんだけどね。」


「そうなんですね!

先輩の夢も素敵な夢ですよ。先輩、絶対イラストレーターになってください。」


遥は、自分に夢を打ち明けてくれた湊先輩の気持ちが嬉しくて本気で彼を応援したいと思った。


「そうだ!いつか、二人で絵本を作らない?

遥ちゃんが文章を書いて俺がそれに絵をつけるんだ。」


びっくりして顔を上げた遥。


「えっ、私と?」


「うん、遥ちゃんと。」


遥は、少し戸惑うような表情を見せたが、

「小説は書けても、絵本の文章が私に書けるかわかりませんが……。

でも、やってみたい!

先輩と。

もしも、それが実現したら、夢みたいです。」

と瞳を輝かせた。



そんなやり取りがあった後、三年生になった湊先輩は、就活に忙しくなり、次第にスマホでのメッセージのやり取りも少なくなっていった。


たまに大学の廊下ですれ違っても先輩の隣にはいつも友だちがいて、遥はなかなか話しかけることができなかった。


湊先輩とほとんど話せなくなった遥は一抹の寂しさを抱いていた。


ただ、一度だけ湊先輩と動物園に行ったことは遥には忘れられない思い出となっている。


それは、湊先輩が大学三年生、遥が二年生の夏休みに入る直前のことだった。


カフェテリアで一人でアイスコーヒーを飲んでいた遥に湊先輩が話しかけてきた。


「遥ちゃん、動物園に一緒に行ってくれない?

実際に動物を見て写生したいんだけど……。

一人で行くのもつまらないし、良かったら遥ちゃんもどうかなと思って。」


「行きます!」


遥は即座に答えてその後恥ずかしくなって、照れて俯いた。


「良かった~。

遥ちゃんが一緒に行ってくれるなんて嬉しいな。」


湊先輩がそう言いながら遥の顔を覗き込んだ。


「先輩、そんなに見ないでくださいよ!」


「ごめん、ごめん。

つい、可愛くて……。」


「また~、可愛いなんて、からかって!」


遥は可愛いという言葉を聞いて、どぎまぎして顔を赤らめた。


湊先輩は、そんな遥の様子を楽しそうに見つめていた。




当日は、雲一つない晴天だった。


遥の少し前を歩く湊先輩。


湊先輩の後を追って遥は、色々な動物を見て歩いた。


蝉も鳴き出して、暑くなり始めた頃だったが、汗をかきながらも遥は楽しくてならなかった。


湊先輩は動物の写生をしたり、写真を撮ったりととても忙しそうだった。

気に入った動物がいるとスケッチブックを開いて鉛筆を取り出し、熱心にスケッチし始める。


その時の湊先輩の横顔は、日に照らされて精悍に見えた。


そして、時々、楽しそうにこちらを振り向いて、ニコッと笑う。


「先輩、その笑顔は反則ですよ。」


遥は、ドキドキしながら、一人呟いた。


遥の心の中で湊先輩がどんどん大きな存在になっていく。


そんな湊先輩がある場所で足を止めた。


「このライオンの檻の前で一緒に写真を撮ろうよ!」


「えっ、ライオンと?」


ちょっとびっくりしたが、湊先輩のリクエストで一緒に撮った写真は今でも大切にスマホの中に保存してある。


「今日は、付き合ってくれてありがとう。

おかげで色んな動物が描けたよ。

暑かったのにあちこちで待たせちゃってごめんね。

お礼にアイスでも奢るよ。」


そう言って動物園に隣接するカフェで湊先輩は、ソフトクリームを遥に奢ってくれた。


その甘くて冷たいソフトクリームの味は、今でも忘れられない。


誰にでも分け隔てなく優しかった湊先輩。


私のことをどう思っていたのかはわからない。


でも、少しでも私のことを気にしてくれていたら、嬉しいなと遥は思っていたが、その気持ちを湊先輩に打ち明けることは最後までなかった。



こんな大学時代のことを一気に思い出したところで、遥は、我に返った。


ゆっくりと遥は、息を吐いた。


ギギギ……。

ギギギ……。


金属の軋む音がする。


ゴンドラが揺れながら、頂上を過ぎてすでに地上に向かって動いているのがわかった。


遥が見せられた映像は、あまりに鮮明だった。


周りを見渡す遥。


遥を包んでいた不思議な光はいつの間にか消えていた。


今のは、一体何だったんだろう?



ゴンドラの窓から外を見るとすっかり日が落ちて、群青色の空が静かに広がっていた。

海の向こうには、漁船の光だろうか?

ゆらゆらと揺れる幾つかの灯りが見えた。


もう、私は28歳。

湊先輩は私より一つ上だったから29歳か……。

先輩は私のことなんてもう、忘れてしまっているよね。


胸がチクリと疼いた。


湊先輩は、大手の出版会社のデザイン部門で働いていると風の便りで聞いたことがある。


まだ遥が大学を卒業して間もない頃だった。


遥の友人が湊先輩の親友から聞いたと話してくれた。


彼女と湊先輩の親友は大学時代、同じ音楽サークルに所属していた。


その話を聞いてから、数年経つ。


先輩は、今、元気にしているのかな?


遥は、いつか湊先輩と再会できたらーー。

と淡い期待を抱いている自分に驚いた。


その時遥は、はっきりとわかった。

忘れていたと思っていた湊先輩は、あの頃のまま、何も変わらずに遥の胸の中にいたのだ。

優しい笑顔を絶やすことなく……。



ゴンドラは、ゆっくりと下降している。


金属の軋む音が遥を現実に引き戻した。


もう、そろそろ降りる準備をしないと……。


遥は、夢から覚めた時のように少しぼんやりとしていたが、ゆっくりと視線を窓の外に移した。


自分のゴンドラが段々と地面に近づいているのが見えた。


ようやく観覧車が一周したようだ。


この一周にどんな意味があるのかーー。


今の遥にはまだ何もわからなかった。


ただ観覧車が見せてくれたあの記憶が遥の心に温かな灯りを点してくれたことは確かである。


その灯りは、遥の忘れていた大切なものを照らし始めた。


遥にとって大切なものが何だったのかを思い出すためにも……


この灯りを消したくないと思う遥だった。



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