絵に込められた想い
湊先輩が通うアートスクールは、大きな公園に隣接するビルの3階にあった。
遥が先輩に促されて入り口を入ると10人程の人がすでにキャンパスに向かって熱心に絵を描いていた。
窓からは公園の緑が見え、小鳥の囀ずりが聞こえてくる。
「静かで綺麗なアトリエ……。」
と遥が言うと
「うん。
ここ、落ち着くんだよね。
ゆっくり製作できるし……。」
と湊先輩が嬉しそうに答える。
「あっ、高瀬さん、こんにちは。
今日の見学者の方ですか?」
と落ち着いた雰囲気の男性が遥たちに近づいてきた。
「鈴木先生、こんにちは。
こちら、成瀬さんです。
今日は、よろしくお願いします。」
湊先輩が遥を紹介してくれた。
「はじめまして。
鈴木です。
良かったら、こちらの椅子に腰かけて見学してくださいね。」
「ありがとうございます。
そうさせて頂きます。」
遥が椅子に座ると……
鈴木先生は、他の生徒を指導するためにその場を離れていった。
湊先輩が
「鈴木先生は、ここで講師をされているんだ。
実は、奈保子さんの旦那さんなんだよ。」
と遥に教えてくれた。
「えっ、そうなんですか?」
遥はちょっと驚いた顔で湊先輩を見上げた。
「驚いた?
今日、奈保子さんも来ているはずだけど……。
ほら、あそこ。」
湊町先輩が指し示した先には絵を描く奈保子さんの姿があった。
「あっ、奈保子さんだ。」
遥も奈保子さんを見つけた。
今日の奈保子さんは、栗色の長い髪を束ねてポニーテールにしていた。
キャンパスには、大胆な色使いで女性が描かれていた。
グレーの地に赤やグリーンも乗せられていて、モデルの女性が際立っている。
奈保子さんの筆を動かす表情は真剣で、画面に描かれた女性のように優雅で美しい。
「絵を描く奈保子さんも素敵だな。」
遥は、奈保子さんの姿に感動してしまった。
「また、奈保子さんに見とれているね。
奈保子さんの絵、良いよね。
凄く力強くて、人を惹き付ける絵だと思う。
俺もあっちで描いてくるから、遥ちゃん、ゆっくりしていて。」
湊先輩も少し離れた場所で机に向かって絵を描き始めた。
絵の具を含んだ筆が白い紙に触れるとーー
始めは淡くぼんやりとした輪郭だったものが、描き込むごとに次第にはっきりとした形になっていく。
まるで魔法を見せられているかのように絵は輝きを増していった。
水彩は、油絵とはまた違った美しさがあった。
遥が色々な人の絵を眺めていると奈保子さんが近づいてきた。
「遥さん、いらしていたのね。
こんにちは。」
「あっ、奈保子さん。
こんにちは。お邪魔しています。」
「高瀬さんから今日、遥さんが見学に来られると聞いていました。
このアトリエはどうですか?」
「とても静かな場所ですね。
皆さんが熱心に絵を描かれていて私、圧倒されました。」
「ここは、良い空間で私も集中して描けるんですよ。」
そう言って奈保子さんも遥の横に座った。
「そうなんですね。
そう言えば……奈保子さんのご主人はこのアトリエで講師をされていたんですね。」
「えぇ。
私がこちらに絵を習いに来たら、彼が熱心に教えてくれて……。
絵について二人で話しているうちにいつの間にか仲良くなりました。」
「素敵な出逢いですね。」
「彼は、普段は穏やかで静かな人なんですが、絵について語り出したら熱が入るんです。
現代アートの作家なので、私にはちょっとわからないような絵も描くけれど……
絵は自由だから。それぞれ好きなものを描いたら良いんですよね。」
「絵は自由。
本当にそうですね。」
遥は、奈保子さんが親しく話してくれるのが嬉しかった。
「そういえば……。
高瀬さんが描いたあのライオンの絵。
あの中の女性は遥さんですよね。」
「えっ、奈保子さんにはわかるんですか?」
「はい。
私、遥さんにお会いしてすぐにピンときました。
普段は動物しか描かない高瀬さんが初めて女性を描かれたので、このアトリエでも話題になったんですよ。
誰だろうって。
あの絵を見せたい人がいるとも言っていたし。」
「そんな……。」
遥は恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「高瀬さん、遥さんが個展に来てくれて、凄く嬉しかったみたいですよ。
遥さんが帰られた後もそれは上機嫌で。
高瀬さん、本当に純粋な方ですね。
良かったですよ。
お二人が再会できて。」
「はい……。」
奈保子さんにどんな表情をしたら良いのかわからず、遥は湊先輩の方を見た。
先輩は、遥と奈保子さんが自分の話をしているとも知らず、相変わらず熱心に絵を描き続けていた。
「すっかり長居をしてしまいました。
私、戻りますね。
どうか、遥さんも高瀬さんとの出逢い、大切にしてくださいね。」
奈保子さんは優しく遥を見つめながらそう言うと、そっと席を立った。
遥は湊先輩と離ればなれになっていた時間を想った。
お互い相手のことをずっと想いながら暮らしていたのかもしれないーー。
奈保子さんから聞いた話を反芻しながら、遥は湊先輩の横顔をじっと見つめていた。
その横顔は、あの夏の日からずっと変わっていないように遥には思えた。
先輩は、好きなことを諦めずに今まで黙々と続けてきた。
それは、凄いことだと思う。
それに比べて私はーー
夢を諦めそうになっていた。
湊先輩に少しでも近づけるようにまた、私も始めてみよう。
遥は、自分の夢に向かって新たな一歩を踏み出そうと心に決めた。




