優しい世界
遥が湊先輩についてギャラリーの奥に進んでいくと……
そこには、淡く美しい色彩のイラストが並んでいた。
遥が最初に足を止めた作品は、緑をバックに鹿が一頭立っていてこちらを見ている絵だった。
朝もやに煙る森の中に佇む鹿。
鹿はこちらを静かに見ているーー。
大きな瞳を潤ませながら。
湊先輩が描いたと思われる短い文章と共にその絵は飾られていた。
遥は、鹿の大きな瞳に見つめられているような錯覚に陥った。
「何て凛々しくて美しい鹿なの?」
遥は、思わずそう口にした。
「遥ちゃん、この鹿、気に入ってくれた?
凄く綺麗な瞳をしていたんだ……。」
「優しい瞳ですよね。」
二人は、目を合わせて微笑んだ。
次の絵には、湖に浮かぶボートとその脇を泳ぐ水鳥が描いてあった。
静かな絵だが、湖面を渡る風や煌めく光、水鳥が泳ぐ度に広がる波紋など……
その場の雰囲気が手に取るように伝わってきた。
遥は、時間をかけてゆっくりと湊先輩の絵を見て回ったが、どの作品にも美しい背景に溶け込む動物たちが、繊細なタッチで描かれていた。
動物たちからは、湊先輩の優しい眼差しが感じられて、遥は胸がいっぱいになった。
そして、最後の絵の前に立った時に……
遥は息を飲んだ。
それは、あの大学時代に先輩と見たライオンの絵だった。
金色に輝くたてがみを風にそよがせているライオン。
そのライオンの檻の前に佇む少女の後ろ姿。
肩までのたらした黒髪に淡い水色のワンピースを着た少女は……
もしかしたら、私?
遥が振り返ると湊先輩が
「気がついた?」
と言って笑みを浮かべていた。
「あれは、遥ちゃんだよ。
あの夏の日のことが忘れられなくてイラストにしてみたんだ。
どう?」
「先輩もあの日のこと、覚えていてくれたんですね。」
「忘れるわけないよ。
遥ちゃんとの大事な思い出だし。」
「えっ?」
遥は信じられないという顔で湊先輩を見つめた。
「また、遥ちゃんに会えることがあったら、この絵を見せるつもりで描いたんだ。」
遥は、先輩があの日のことを特別に思って絵にしてくれたことに感激してしまった。
何だか涙が出てきそう……。
遥が泣き出しているのを見てびっくりした湊先輩があたふたとしている。
「えっとハンカチ、ハンカチ……。
あれ?
ないなぁ。どこだっけ?」
「あっ、ごめんなさい。
つい、嬉しくて。
私、ハンカチなら持っているので、大丈夫ですよ。」
遥はハンカチを探して焦っている先輩が可愛く見えて、最後には笑ってしまった。
「遥ちゃん、泣くほど感動してくれたの?
嬉しいなぁ。
あっ、泣いてたと思ったら今度は笑ってる。」
泣き笑いの状態になっている遥を見て湊先輩も笑っていた。
そんな二人の側に奈保子さんが驚いて近づいてきた。
「どうされたの?
お二人とも……。」
「あっ、奈保子さん。
心配させてしまってすみません。
もう、大丈夫なので……。」
湊先輩が苦笑いしている。
奈保子さんは、楽しそうな二人の顔を見比べて何かを察したようだった。
「それなら、良かったわ。
お二人とも話が弾んでいたのね。
でも、他のお客様もいらっしゃるからギャラリー内では
お静かにね。」
奈保子さんは、そう言って人差し指を口元にあてた。
そして、ちょっと微笑んでから立ち去っていった。
「先輩、奈保子さんって綺麗な人だけれど面白みもあって……
私、ファンになりました。」
遥が奈保子さんの後ろ姿を目で追っている。
「そう?
遥ちゃんにもわかる?
彼女、美人でユーモアがあるからアトリエでも人気があるんだ。」
「やっぱり……。」
納得する遥。
「遥ちゃん、今日はまだ、帰れないんだけれど今度食事でも一緒にしない?
今日のお礼がしたいんだ。」
「食事ですか?
良いですね、ご一緒したいです。
あと……先輩のアトリエにも行ってみたいんですが……。」
「えっ?
アトリエに行きたいの?
わかった。
見学OKだから、見においでよ。」
「本当に?
是非行ってみたいです。」
「じゃあ、一週間後の土曜日はどう?
その頃にはこの個展も終わっているから、アトリエを案内できるよ。」
「はい。
では、来週の土曜日に連れていってください。」
湊先輩は、遥をギャラリーの出口まで送ってくれた。
「じゃあ、また来週ね。
後で時間を連絡するよ。」
「はい。
LINEしてください。
今日は先輩の絵が見られて凄く嬉しかったです。」
「うん。
見に来てくれてありがとう。
遥ちゃんが見に来てくれて、嬉しかったよ。
気を付けて帰ってね。」
また会う約束ができたので二人は気持ち良く別れることができた。
遥は、湊先輩との会話の一つ一つを思い出しながら幸せを感じていた。
あの観覧車で見た出来事が実際に起こり始めている。
遥の隣にいたのは湊先輩なのかな?
動物を描いたノート。
そのノートを挟んで微笑えむ二人。
これから実際に何が起こるのか……。
二人で描く未来を見てみたいと遥は強く思った。
遥のグレーだった毎日が色を取り戻していくーー。
色鮮やに軽やかに……人生が変わっていく予感がする。
少し冷たくなった風が心地よく感じられる昼下がり。
新しい服でも見て帰ろうかなと遥の胸は踊った。




