大魔術師夫妻と冥王の国
「ここが、冥界の入口……」
寿命が尽き、冥界へとたどり着いた女は、そっと扉を開けた。
中は広い洞窟になっており、そこには巨大な三つ首の犬が。
『ガウ、ガウガウ』
『アウアウアウ』
『ウオォーン』
威嚇する調子の吠え声は、もたもたするな、さっさと進めと言わんばかり。
おそらく、おおかたの人間は怖さに負けて、そそくさと道を急ぐだろう。
例え犬好きであったとしても、丸呑みされそうな大きな口を見ただけで、猫派に鞍替えするかもしれない。
だが、そんな威力満点な番犬を見ても、女は怯まなかった。
「可愛い」
三つの犬の首は、初めて言われた言葉に思わず口を閉じる。
そして、同じ角度で首を傾げた。
その様子に可愛さ余って、思わず手を伸ばす女。
すると、首の一つが彼女に近づく。
自然と触れ合い、女は犬の首を撫でた。
「まあ、手触りがいいわ」
短毛ながら、柔らかい毛質だ。
「御主人は、きちんと可愛がってくださってるのね」
『キュウ~ン』
同意するように、撫でられていた首が甘え声を出した。
すると、残り二つの首が、自分たちも撫でろと訴える。
「順番にね」
『クウ~ン』
『グフ~ン』
これが普通の犬であれば、ヘソ天でだらしなく寝そべっているだろうが、さすがに冥界の番犬。立ち姿だけは崩さない。
「まあ、すっかり三つの頭を虜にしたわね。
気難しい彼らを手懐けるとは。
貴女は、さぞや名のあるサーカス団の調教師だったのではないかしら?」
後ろから声をかけられて振り向くと、そこには華やかに着飾った美女がいた。
「いえ、わたしは生涯、一主婦でございました」
「一主婦がケルベロスを手懐けるなんて、どんな家事術をお持ちなのかしら?
是非、お話を伺いたいわ」
身分のありそうな女性の言葉である。
しかし、亡者である女にはどうしたものかわからない。
返事も出来ずにいれば、新たな登場人物が現れた。
「どうかしたかい? お前が戻らないので、迎えに来たよ」
それは黒ずくめの衣装を着た、威圧感の半端ない男であった。
「まあ、我が君。ご足労をおかけして申し訳ございませんわ。
ですが、こちらの方がケルベロスを手懐けたものですから、興味がわきましたのよ」
「ケルベロスを?」
新たな人物は、美女の夫君のようだ。
彼は、女に撫でられて目を細めている愛犬たちを目にした。
「これは、すごいな。
妻が興味を持つのも尤もだ。
そこの君、しばし我が妻の話し相手を頼めるか?」
「貴方様は、どなたでしょうか?」
女は訊ねる。
「紹介が遅れた。私はこの冥界の王だ。そして、彼女は私の最愛の妻。
冥界では何においても、冥王妃である彼女の考えを最優先する。それが私の決めたルールだ。
そこだけは理解しておいてくれ」
「かしこまりました」
「……わたしは生まれつき、他人の寂しさや、愛を求める飢えた心に敏感なようでした。
夫と出会った時、彼が強大な力を持つゆえに孤独であったことを感じました。
そして、わたしが傍らで支えなければと決意しました。
自分の生まれてきた意味は、ここにあったのだと実感したのです」
「まあ、運命の恋人に会えたのね」
「はい」
冥王妃の宮殿に場所を移し、女は問われるまま、自らの人生を語り始めた。
田舎の領主の家に生まれた女は、幼いころから慈しみの心が強いとよく言われた。
それを体現するように、時間があれば近くの孤児院に出かけて子供たちの世話をした。
そんなある日、孤児院を訪ねて来た一人の男に出会った。
年の頃は十六歳くらいに見えたが、本当はずっと高齢なのだと院長から聞いた。
子供たちの様子を時々見に来る男は、土産に高価な薬を持参する。薬のおかげで命が助かった子供は、何人もいた。
「彼は魔術士でした。
それも大魔術師と言われる、高名で偉大な方です。
世界中を回って子供たちの成長を見守るという、立派な仕事をなさっていました。
けれど、見た目通りの子供っぽさも残っている、とても面白い方だったんです」
女はいつも、家で作った菓子を孤児院へ持参した。
それを一口食べた大魔術師は、あろうことか子供たちとお替りの取り合いをしたのである。
「あんまり真剣な顔でお替りを欲しがるので、子供たちの方が気の毒がって譲っていましたわ」
女は思い出し笑いをする。
「大魔術師様は、わたしに尋ねました。
『お前は幸福か?』と。
わたしは頷きましたが、心の中には少しわだかまりが残りました」
領主家の家族関係は良好。気候も穏やかで、飢饉の心配もない。孤児院の子供たちも健康で元気だ。
女には、何の不満も不安もないはずだった。
「わたしは、いつも、何かが足りないと感じていました。
ここではないどこかで、見知らぬ誰かに会わなければならない……そんな現実離れした思いが、頭の片隅にずっとあったのです」
大魔術師は孤児院で一夜の宿を借り、翌朝出発すると聞いていた。
「朝、自宅で目覚めたわたしは、着替えもそこそこに孤児院へと走りました。
目覚めた瞬間に感じたのです。
あの人を、一人で行かせてはいけないと」
大魔術師は転移魔法も使うと言う。
もう、間に合わないかもしれない。
けれど、女は走った。
「孤児院の近くの道を歩いている彼を見つけました。
わたしは彼の背中に飛び付きました。
そして、尋ねたのです」
『大魔術師様が、どうして歩いているの?』
『もう少しだけ、君の居る場所に留まりたかったんだ』
「まあ素敵」
「……笑えそうなところもあったような気はするが」
仕事を片付け、途中から話を聞いていた冥王は冷静に分析する。
「他人の目から見れば、ロマンスなんてそんなものかもしれません」
「そう言われると、心当たりが無くも無いわ」
冥王妃は、ちらりと冥王を見た。
「その後は、彼とずっと添い遂げたのです。
見目の変わらない彼の隣で、わたしは年老いてしわくちゃの老婆になりました」
「彼は、最後まで愛してくれた?」
「ええ。わたしを少しも不安にさせませんでした。
わたし、出会ったばかりの頃は、自分の容姿に少しは自信があったのですけど、生涯変わらぬ彼の態度を見ていたら、ちっぽけなプライドだったと笑えてしまったくらいです」
「では、お別れの時は大変だったのではなくて?」
「ええ。六百歳にはなるはずの、見た目十六歳の男性がギャン泣きするのです。お付き合いのあった方が、最期のお見舞いに来てくださったのですが、皆さん、わたしより彼の心配をする程でした」
「あら、ふふふふ」
「呆れた男だな」
「あなただって、もし、わたくしが世界から居なくなるとしたら、そんなふうになるのではないかしら?」
「私たちは神だ。最期があるとすれば、世界と共に消滅するだろう」
「そういうことを申し上げているのではございませんのよ。
……それはともかく、六百年で思い出したわ。
わたくしたち、六百年前に一度、休暇をもらって地上の温泉に行ったことがあるの」
「冥界の支配者ご夫妻が、温泉休暇……」
「ええ。冥王様は冥界から離れられない定めですけど、天界の神が御協力くださって。
でね、そういうふうにまったり出来る事って滅多にないから盛り上がって」
「ええ」
「すぐに子供が生まれたの」
「ええ!?」
「神の子は神の力を宿して生まれますからね。
息子はあっという間に、十六歳ぐらいに成長したわ」
「まあ、そんなことが……」
「それで、冥界に一緒に帰るはずが、息子に捨てられてしまって」
「生まれたばかりの子が親を捨てたのですか?」
あっという間に十六歳の姿になるくらいだ。
生活の面倒を見てもらわなければ困る、ということはないのだろうが。
「息子が言ったのよ。
『僕には、この世界で出会うべき魂があります。
それを待たねばならないので、一緒には行けません』って」
「六百歳の恋愛執着体質の男。
まるで、同一人物のようではないか?」
その時、冥王の言葉に呼応するかのように、虚空から一人の若い男が現れた。
「君が生まれ変わって来るのを待とうと思ったけれど、待ちきれなくて迎えに来てしまったよ!」
「まあ、あなた」
「あら、お前」
「やっぱり、お前か……」
「父上、母上、六百年ぶりです。お元気そうで何より」
「まあ、神だから無病息災に決まっている」
「そうですね。安心しました。
それはともかく、我が妻を早めに地上に返していただけませんか?」
「お前は、もう少し親子の情など醸せないのか?」
「今更、母上のお乳が恋しいなどということはありませんし、父上に抱き上げて欲しいわけもないでしょう」
「お前、私のことはともかく、妻を軽んじるとは。
よし、この父が高い高いしてくれようか。
天界まで放り投げてやる!」
「自分で飛べるので結構です」
「バチバチね。面白いわ」
「さすが親子と思える、息の合い方ですね」
結構本気だった冥王だが、ギャラリーに徹する王妃と嫁に毒気を抜かれてしまう。
「彼女は亡者になっているから、冥界のルールでは順番を待つしかない」
父親の言葉に、息子が意気消沈していると、新たな声が響く。
「では、私の出番かな?」
出現したのは、天界の王であった。
「君は持ち前の神の力を、更に独自の研究で魔術として究めた。
それによって地上を穏やかに保ってくれている」
「いつか地上の世界で、私の大切なものが見つかると信じていましたから。
そして今後も、彼女の生まれた場所を守るのは当然だと思っています」
「その恩恵は計り知れないよ。
君の細君を神の一族に迎えよう。
それから、君は地上を統べる王と名乗るがよい」
「身分は有難く頂戴いたしますが、呼び名は大魔術師のままで。神として祀り上げられては、何かと厄介です。
僕は妻と二人、今まで通り自由に旅をしながら地上を守ります」
「そうか。よろしく頼む」
そうして、天界の神は帰って行った。
「これで、息子の嫁である貴女も、地上と冥界の行き来ができるわね」
一柱の神として迎えられた女は、大魔術師の夫と出会った頃の姿を取り戻した。
「お義父様とお義母様は、また地上にお出かけにならないのですか?」
「息子に捨てられたことが、微妙にトラウマになっているのよ。もちろん、恨んではいませんけれどね。
でも温泉は、素晴らしかったわね」
すると、大魔術師は冥王とゴニョゴニョ内緒話していたかと思うと、ふっと姿を消し、しばらくしてから現れた。
「母上、冥界の土地を少々お借りして、温泉を造ってきました」
「まあ!」
「僕は地上の世界をいろいろ回りましたが、東の島国の温泉が一番でした。
そこで見た旅館や庭の景色ごと再現しましたから、ご満足いただけるかと」
「素敵。ありがとう。六百年ぶりなのに、なんて親孝行な息子なのかしら」
「それでは、僕たちはこれで」
「せっかくだから、一緒に温泉を楽しんで行けば?」
「そこは、水入らずでお過ごしいただくべきかと」
「さすが我が息子、よくわかっているではないか」
「というわけで、今日のところは帰ります。
お二人とも、お元気で!」
「お義父様、お義母様、またお会いできるのを楽しみにしておりますわ」
「ええ、また会いましょうね」
「達者でな」
神になった妻を抱いた大魔術師は、あっという間に地上に出た。
「このまま東へ向かうか?」
「温泉へ?」
「ああ」
「楽しみだわ」
人間だった妻が歳をとり、旅が覚束なくなってからは、しばらく小さな家で定住していた。
二人で東の国の温泉に行ったのは、もう何十年も前の話だ。
「これからまた、ずっと、あなたと一緒にいられるのね」
「済まないが、君が飽きても手放すことはないから」
「世界が終わっても、わたしにはあなただけ」
東の国の宿の庭へ降り立てば、箒を使っていた老爺が気付いて人を呼ぶ。
「これ、誰か! 久しぶりに大魔術師様ご夫妻がお見えだ。
すぐに離れの用意を」
「また、世話になる」
「ようこそ、お越しくださいました。
手前が存命のうちに、再びお会いできるとは光栄でございます」
「お元気そうで何よりだ。
そうだ、貴方の寿命はまだまだ尽きないが、その時が来て冥界に赴く時、少し頼みたいことがあるのだが」
「冥界での御用ですか?
非常に興味深いですな。この爺でお役に立てるならば、何なりと」
「ありがたい」
二十年後、冥界に旅立った老舗温泉旅館の元番頭は、冥王夫妻のための温泉宿の支配人となって、ずっと彼らに仕え続けた。
「じわじわと、親孝行な息子ね」
「嫁が良かったのかね」
「たまには素直に褒めてあげてくださらない?」
「私が褒めなくとも、息子は十分幸福だ。
私と同じく、最愛の伴侶を得たからな」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
というわけで、それからも二つの温泉宿は二組の夫婦を癒し続け、世界の平和に貢献したのである。